東大作      オークの樹の下で

 カナダからの便りK 「新しい出会い」 
          2006年10月30

   一連の写真は、東氏の妻(雅江さん)が撮影























◇今年4月。UBCの博士課程に進むのを決めたちょうどそのころ、新渡戸庭園の隣にある、Liu Instituteという人間の安全保障を専門に研究する研究所の新しい所長候補になった、カナダ人の女性による発表会があった。見ると、アフリカのブルンジでの平和構築(国家再建)を担う国連のトップだった人だと書いてある。これは、自分にとってはとても大事な人だと思い、私は、午前中と午後、二回の発表に出席し、質問もした。更に、発表会のコーデイネーターターにも特別に
「10分でもいいから話をさせて欲しい」と頼んだ。

◇キャロリン・マクアスキーという名前の彼女は、私の先輩でもあった。UBCの政治学科をずっと昔卒業した。その後、30年にわたってカナダのCIDAという海外援助庁に勤め、その副総裁まで上りつめた。その実績で、国連の幹部職に抜擢され、2004年からブルンジの国連事務総長特別代表として、PKOのトップに立っている。その大役を終え、UBCの研究所の所長にアプライしていた。その指導力や明晰な分析力で、多くの人が彼女がUBCにくることを期待していると、私は聞いた。私も、彼女の話に感動し、そのことを強く願っていた。

◇発表会のあと、二人で話す機会を得た私は、自分のことを簡単に説明し、これまでの国連の番組なども渡した上で「平和構築についてこの4年間研究して、よい本を出したい」という自分の目標を伝える。彼女は、NHKのこともよく知っていて、「素晴らしいわ。これから連絡を取り合ってやっていきましょう」と言ってくれた。私も彼女がUBCの所長として来てくれることを願った。そして、改めて自分の経歴や、目標を伝える長いメールを彼女に送っていた。
 
  ↓UBC・アジアセンター
◇しかしその一ヶ月後、彼女が所長の選考過程から自ら辞退したという話を聞いた。どうしてかとLiuの担当者に聞くと、なんと「今度新しく出来た、国連の『平和構築委員会』の事務方のトップの国連事務次長補に抜擢されたから」というではないか。

◇平和構築委員会は、紛争後の国家再建活動を、国連がより効果的に実施するために、去年の国連総会で新たに設立が決まったものである。国連60周年の最大の目玉でもあった。31カ国により構成される委員会では、国連による平和構築活動の最大の支援国の一つである日本(全PKOのおよそ20%を拠出している)もほぼ常任国として参加することになっている。

◇平和構築委員会は、加盟国によるものだが、その事務方として新たに「平和構築サポートオフィス(支援室)」が国連本部の中に設立された。そのトップに、マクアスキー氏が任命されたのだった。

◇私は、再度メールを送り、カナダの彼女の実家でも、6月に訪問するNYでも、とにかくもう一度会いたいという旨のメールを送った。すると彼女から、「6月にNYの国連本部で会いましょう」という暖かい返事が来た。

◇5月。私はロンドンに行き、去年7月までアナン事務総長の片腕として、政治局長を務めたプレンダガスト氏にインタビューした。今度は、UBCの倫理委員会の査定も経て、私の将来のPhD論文や本のために、正式に行ったインタビューである。2時間半に渡って、イラク問題を巡るアメリカと国連の攻防について語ってくれた。二年前に番組の取材で彼にインタビューをしたが、その番組やベトナムの番組を彼は見てくれて、インタビューに応じてくれたのだった。

◇6月、国連本部で平和構築を調査している専門家や、NYで国連を研究している大学教授、去年インターンでお世話になった制裁部の人たちなどに会うために、NYに行く。NYのホテルは急騰を続けているが、幸い、友人夫婦で泊めてくれる人がいて、なんとか調査に行ける。こうした人たちの支援が心から有り難い。

◇マクアスキー氏は、新たに始まる平和構築委員会のための準備のために、各国の大使と会うために大わらわだったが、その中でちゃんと30分時間を作ってくれた。私は再度、自分の研究目的や、これまでの自分の経験、そして目指す研究内容について一生懸命話した。彼女は私の話をよく耳をすませて聞いた後、「もしもう一度来てくれたら、いろんな人を紹介します。そして一緒に研究の事業をすることを楽しみにしています。」とまで言ってくれた。私は、喜び勇んで、日程を打ち合わせた。8月の末にもう一度、NYで会うことを決めた。

◇バンクーバーに帰り突貫工事で、MA論文を書き続ける。プライス氏の丁寧な指導のもと、「イラク戦争における、平和構築の規範を巡る闘い」というテーマの論文を書いた。日本語の本を4月に出版してからの作業で時間がなかったが、指導教官たちの協力もあり、なんとか7月12日にMA論文を仕上げることができた。130ページ。先生方にも二度に亘って読んでもらい、3回に渡って書き直し、口頭試問に臨んだ。口頭試問が終わったあと、プライスが「第二外国語でこれだけの発表と論文が書けることは、大変こと。その点自信を持っていいと思います。」とわざわざ言い添えてくれた。自分が、未だに英語で苦労していることをよく認識した上で励ましてくれたのだと思う。その後プライスは、「私は、MA論文からこれほど新しいことを学んだことはないです。つけた点数も、この5年間で最も高いものでした」と言ってくれた。もう一人の女性の審査官の教授も、「よく短期間に自分の助言をここまで反映しましたね。とてもよかったです。」と声をかけてくれた。彼らの優しさに感謝の意を伝えるばかりだった。無事にMAが取得でき、これで一応、国連に申し込む最低条件はクリアしたことも嬉しかった。

◇この春、論文作成の合間に、息子大誠の学校の行事に出ることも多かった。月曜日から金曜日にかけて学んでいるカナダの小学校のクラスで行ったキャンピング。土曜日に通っている日本語の補習校での遠足会。両方とも出席したが、大誠が本当に楽しそうに他の子供達と交わっている姿を見ると、心からほっとした。

◇カナダの先生は私に「大誠が、他のクラスメートと馴じんで、付き合い方を学ぶまでには随分時間がかりました。でも今は本当に心から友達との関係を楽しんでいるようです」と話した。私もそれを感じた。以前、息子から「休み時間に遊ぶ人がいない」と打ち明けられ、妻と一緒にカナダの先生の所に相談にいったこともあった。いつも元気で活発な大誠にとっても、やはり、新しい環境に慣れるということは大変なことだったのだと思う。

◇カナダに残るといったとき、「やったー」と喜んでくれたのも大誠だった。そして今、心底、楽しそうに学校生活を送ってくれている。妻もまた、日本語を教える仕事を、充実して展開してくれている。妻と子供がバンクーバーの生活を楽しんでくれているとすれば、自分にとっては何よりのことだった。
                                     ↓この写真は東大作氏撮影
◇MA論文が終わって、三日後に日本に帰国した。二年ぶりの日本だった。20人をこえるNHKの人たち会った。会社を離れて二年。まだ応援してくれる人が大勢いることに、胸が熱くなることも多かった。また、「犯罪被害者の声が聞こえますか」の出版のためにお世話になった、被害者の方々にも、九州から大阪、高知、そして静岡、東京と、一人一人に挨拶してまわった。取材に協力して頂いた感謝の気持ちと、自分がまだ元気でいることを実際に会って伝えたかった。

◇また、自分の研究テーマにとって重要な方にも多くお会いした。JICAの平和構築担当の方々にもお会いして、貴重な助言を頂いた。JICA理事長のSさんにも二年ぶりにお会いした。二年前、NHKを辞める直前、1時間半に渡って励ましてくれたSさんに近況を伝え、平和構築の研究について助言を得るためだった。多忙を極める中、Sさんは凡そ1時間にわたって、「現場に行くことが平和構築の研究にとっては決定的である」ことも含め、多くの貴重な助言を与えてくれた。心から感謝している。彼女の励ましが自分にとって強い支えになっている。また、ベトナム戦争の番組を国会や著書で紹介してくれて以来親交があり、留学を決めてからも、常に私のインタビューに応え、応援してくれている、塩崎恭久さん(当時外務副大臣)も、子細に相談に乗ってくれ、今後の研究にとって重要な方を何にも紹介してくれた。これも感謝の気持ちは隠せなかった。NHKの方々を含め、お会いした全ての方々に感謝の気持ちを抱いて、8月17日、再び日本を後にした。

◇バンクーバーに戻り、三日後に、カナダ、アメリカ、日本、ヨーロッパの研究者・教授によるカンファレンスに、パネリストとして参加する。将来的には一冊の本を一緒に出すことを目的としたカンファレンスだが、自分にも一章を書かせてくれ、発表の機会も与えてくれたUBCのYves 助教授に心から感謝せざるを得なかった。

◇カンファレンスのあと、三日後の再度ニューヨークに向かった。マクアスキーと再度会い、今度は、具体的な提案書を提示した。彼女は私の企画に全面的に賛同してくれ、様々な国連の幹部を紹介してくれた。スーダンの南北平和調印の立役者になった国連の幹部、PKO局の政策立案部のトップ、UNDPの東チモールやアフガニスタンの担当の方など、あわせて10人の以上の方に会うことができた。みな、自分の企画には賛成してくれ、将来の協力を約束してくれた。また今回の取材にあたっては、日本の代表部の方々に大使も含めて多くお会いでき、色んな面で支援をして頂いた。これもまた心から感謝している。

◇一週間の調査を終え、その内容をマクアスキー氏に報告する。「よかったわね。私も嬉しいわ。これからも頑張っていい調査をしてね」と言ってくれる。近いうちの再会を約して、NYからバンクーバーに戻る。

◇9月5日、また学校が始まった。週3科目とTA(大学生への授業を手伝うアルバイト)で、また恐ろしいまでの宿題との闘いの日々に戻った。

◇将来の現地調査の方も、今年末にアナン事務総長が変わることもあり、国連の人事がどうなるか分からないため、まだ全く予断を許さない。私自身、あと一年、コースワークがあり、そのあと、PhDを取るために必要な、コンプレヘンシブ試験という試験を受けてそれを突破しなければならない。その後やっと、現地調査に行けるわけで、まだまだ先は長い。

◇英語の力もまだまだで、この先の仕事がどうなるかも分からない。貯金もそれでもどんどん減っていくのは事実である。でも、二年前、「日本人の一人として国際社会で、平和建設のために働けるようになりたい」と夢見てUBCに来た時と、まだ志自体は変わっていない。所詮自分の夢など、荒唐無稽な夢にすぎないのではないかともよく思う。でも、いつも自分には、「30年継続してやれば、何かが起きるかも知れない。」と言い聞かせている。大事なのは、30年継続してやれる基盤を作れるかどうかであろう。

◇新渡戸氏のたとえ何万分の1でも、日本とカナダと国連の橋渡しになるような仕事が将来できればと願う。それが、自分を応援してくれている、日本やカナダ、そして国連の人たちへの自分ができる数少ない恩返しではないかと思いながら、今日もまた、こつこつ勉強を続けている。

☆☆☆「夢の誠文堂」店主から一言☆☆☆
▼東君、ありがとう。次回と今回の便りで、カナダと新渡戸稲造の深い関係を知った。「願はくはわれ太平洋の橋とならん」カナダに刻まれた石碑の写真はなんとも毅然として美しい。東君の初心をそのまま映し出しているような碑に心地よくうららかな光が当たっている。
▼先日、中国政府関係者の話を聞く機会があった。政治的にこじれてしまった日中関係であるが、彼らは今、なんとかその関係を修復する実利的な方法を模索しているのだという。その時、日本を知る教科書として若手が読んでいるのが新渡戸稲造の「武士道」だと話していたのが興味深かった。
▼最初に英語で著された「武士道」はその後、17カ国語に翻訳され、世界的なベストセラーとなった。最初に出版されたのは1899年、アメリカであった。その頃、アメリカで病気療養中であった新渡戸は、ベルギーの学者から「日本人の道徳観念の根本にあるのは何か。宗教教育がないとすれば、その根底にはなにがあるのか?」と問われ、はたと考える。アメリカ人の妻、メリーからも、日本であまねくおこなわれている思想や習慣について「それはどのような理由で行われているのか?」としばしば聞かれた。その疑問に応えるために、新渡戸が思索した日本人論が
「武士道」である。
▼新渡戸は日本人の道徳観を支えている「武士道」を、神道、仏教、儒教の中に求めつつ、それらを中世ヨーロッパの騎士道、キリスト教、西洋哲学と比較検討しながら、日本人の行動原理を解明している。その俯瞰目線の確かさに驚くと同時に、改めて、その後の日本の短絡目線の危うさを思う。
▼例えば、「武士道第三章 義または正義」の中では、こう言及している。「イギリスの作家、ウオルター・スコットが、愛国心について『それは最も美しいものであると同時に、しばしば、以て非なる他の感情の仮面としてあらわれるもっとも疑わしいものである』と言っていることは、義理についても言いうるのではないだろうか。義理とは、正しい道理から遠ざかって誤用されるようになると、あらゆる詭弁と偽善の隠れ蓑となってしまった。それ故に、武士道においても、もし正しい勇気の信念と、敢為堅忍の精神がなかったならば、義理は一変して、卑怯者の巣と化してしまったであろう。」(講談社版「武士道」より)  今こそ、日本人はこの先人の珠玉の言葉に耳を傾けるべきだ時だろう。

▼新渡戸稲造は、「武士道」を著した20年後に国連事務次長となり、「ジュネーブの星」と謳われた。その後をゆく東君がやがて「ニューヨークの星」と謳われる日が来ることを信じて、いつまでも応援団をつとめていこうと思う。

  ※東大作のテレビ・ジャーナリストとしての航跡はここをクリックすればでます

 ※ 「草木花便り」の中での東大作の航跡

    ◇「2004年7月19日 曇天に咲く孤高のひまわり(「夢の誠文堂 店主より)」

    ◇「2004年8月27日 オークの樹の下で 東大作 カナダからの便り@」

    ◇「2004年10月1日 東大作 カナダからの便り A<誤算>」
    
    ◇「2005年1月1日 東大作 カナダからの便り B<私と息子>」

    ◇「2005年2月6日 東大作 カナダからの便り C<出会い>」

    ◇「2005年3月6日 東大作 カナダからの便り D<壁>」

    ◇「2005年5月13日 東大作 カナダからの便り E<年齢>」

   ◇「2005年7月26日 東大作 カナダからの便り F<国連にて(1)粘り>」

   ◇ 「2005年10月30日 東大作 カナダからの便り G<国連にて(2)テーマ>」

   ◇ 「2006年2月6日 東大作 カナダからの便り H<カナダと格差>」

   ◇ 「2006年3月3日 東大作 カナダからの便り I<結果とオリンピック>」

   ◇「2006年10月6日 東大作 カナダからの便り J<カナダと新渡戸稲造>」
                      2006年10月30日