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  東大作      オークの樹の下で

 カナダからの便りM 「奇遇と三年」 
          2007年8月23

     一連の写真は、東氏の妻(雅江さん)が撮影     


























※去年以来、過激ともいえる多忙さの中でなかなか投稿できませんでした。すみません。

◇今日、200年8月23日。妻と子供を連れてカナダに住み始めてちょうど三年がたった。この「カナダからの便り」の最初の投稿からも三年がたったことになる。


「石の上にも三年」というけれど、いったいどんな成長があったのか。自信のない面が多い。体力の続く範囲で、精一杯やってきたつもりなのに、形として残ったものはあまりにも少ない。唯一、去年本を出版したこと、MAを取得したことぐらいだろうか。



◇それなのに、相変わらず忙しい。現在は、コースワークも終わり、11月にあるコンプレヘンシブ試験の準備である。二回にわたり、それぞれ5時間、学部のオフィスに閉じこめられ、それぞれ三問の問題について、その場で短い論文を書かなければならない。一切、資料を持ち込めないので、主な理論やその提唱者を全て記憶して臨む必要がある。

そのために読むように指定された文献が実に、全部で250冊を超える(論文と本をあわせて)。これを残り二ヶ月半でどう消化して、記憶し、試験問題に対応できるよう準備できるのか、自分でも自信がない。しかしこの試験を突破しないと、次のフィールド調査を始めることができないのである。失敗すれば追試験が課され、それほど例は多くないが、二度失敗すると、学部から去ることになる。

◇これまで授業の方は、努力をしてきて、PhDでは全てAだった。MA、PhDあわせても、ほぼ半分のクラスで上から一番か二番だった。そんなこともあって、比較的指導教官の人たちは私の試験については楽観的である。しかし私は、全く楽観していない。プレッシャーで苦しむ時も多い。

◇それでも、今日、三年目の気持ちを書きたいと思ったのは、誠文堂の店主の、一連の原爆関連の草木花便りを読んで、深く心を動かされたからだった。今日ぐらい、少し勉強が遅れてもいいじゃないか。店主にメッセージを送りたいと思った。

しかし私に書けることは、結局自分の体験しかない。細かくは書けないことが多いにしても、春から感じたことを縷々書いて、三年目の記念にしたい。

◇5月14日から、6月13日まで長期の調査と事前交渉に出かけた。最初一週間は、トロントの友人の家に泊まり、トロント大学、ヨーク大学、更に、カナダ陸軍学校の教授などにお会いして、自らの研究プロジェクトについて色々とアドバイスをもらう。トロント大学の教授は、遠く昔、1998年に制作した「ベトナム戦争 敵との対話」の取材でお世話になった、ブラウン大学の教授ご夫妻が紹介してくれた人である。

◇ブラウン大学のジム・ジャネットご夫妻は、私がちょうどNHKを辞めてUBCで最初の学期の宿題にのたうちまわっていたころ、連絡をくれた。「あなたの作った英語版の番組を今も、授業で使っている。だけど、テープが切れてしまった。コストは払うから、できれば、一本送ってもらえないだろうか。」という連絡だった。それで私は、NHKを既に辞めて、国際紛争の問題に将来取り組みたいと希望して大学院で勉強を始めたということを、Eメールを通じて伝えた。

その後ご夫妻は、二人が知っている教授や研究者のめぼしい人全てに、私を紹介するメールを打ち、話をして、応援し続けてくれている。もう会社を辞めて、一個人になった私のために、骨を折り続けてくている二人には、本当に頭があがらない。

◇トロント大学の学部長を務めているまだ若い教授に私のことを話してくれたのも、上のご夫妻だった。その縁で、この教授とはメールや郵便を通じて、随分親しくなっていた。日本通で、日本についても研究しているその教授と、トロント大学の近くのレストランで昼食を共にしながら、お互いの研究や将来のことについて語りあう。トロント大学はカナダではUBCと並んで、一番大きな大学なので、彼からのアドバイスは有り難い。

            ↓ 東家の庭の訪問者
◇そうした面会をトロントで重ねた後、ニューヨークに入った。ニューヨークでも親しい友人二家族が、二回に分けて私を泊めてくれる。こうした支えがないととても、ニューヨークで調査や交渉などできない。本当に有り難くて、感謝の言葉がない。

◇まず、国連平和構築担当の国連次長補、マクアスキー氏に会う。彼女とも、去年4月にUBCで初めて会ってから既に6回目の面会で、すっかり親しくなった。考えてみれば、アメリカでなく、カナダのUBCでPhDを取ることを決めた一月後に、UBC出身のカナダ人で、しかも自分の研究テーマに関する国連機関のトップに任命された人と知り合えたこと自体、本当に「奇遇」である。彼女も基本的には、私を大学の後輩として、応援してくれているようだった。

◇私の、企画書にもう一度目を通し、来年からフィールド調査を行う予定の、アフガニスタンや東チモールなどの主な担当官や、会ってアドバイスをもらうべき高官全てに、彼女の名前で、企画を支援するメールを配布してくれる。それを私がフォローし、一人一人に会い、企画を説明し、アドバイスをもらい、将来の協力について具体的に相談する。

21日間で、結局30人近くの人に会わなければならなかったが成果は大きかった。国連本部の担当官は皆、企画に賛同してくれ、調査に協力を約束してくれた。

勇気づけられたことは、国連PKOの実践活動を改善するための調査、研究、提言をしている部署の部長が「非常に素晴らしい企画。是非最終的な報告書ができたら送って欲しい。部のみんなにも配りたいし、サイトにも載せたいから」言ってくれたことである。彼女とは去年から会っていたが、一年かけて作った企画書をとても評価してくれた。「学会だけでなく、実際の活動にも役立つ調査がしたい」というのが、自分の希望だけに、とても勇気づけられた。

◇また色んな奇遇にも恵まれた。まず、東チモール国連ミッションのトップであるチモール国連特別代表に、直接会えたことである。私が滞在していたわずか3週間の間に、彼が安保理への報告のためにNYに来ていたのだった。マクアスキー氏がまず紹介のコンタクトをしてくれ、その後、私が、会議の場で直接本人に話しかけ、時間を設定してもらった。とても親切な対応だった。翌日、設定された時間に会いに行くと、既に企画書を読み込みでいて、調査の方法論について、色々とアドバイスしてくれると同時に、具体的な支援の内容についても、話してくれた。最後に私が、東チモールのガバナンス部長をされている方と頻繁に連絡を取っていることを告げると、「ではその彼(部長)を、私の調査のコーデイネータに正式に任命しておきます」と言ってくれた。

もちろん費用等は全て私の方で用意しなければならないが、紛争地域で調査をおこなうには、しっかりした受け入れ先の協力が不可欠である。その意味で、思わぬ奇遇も手伝って、トップと直接話ができたのは、本当に運がよかった。忙しい中時間を作って下さった特別代表に心から感謝したい。

◇また、アフガニスタンに関しても奇遇が多かった。国連本部のアフガン担当の方は、色々と企画についてアドバイスしてくれた後、すぐに私の企画を応援して欲しいという連絡を、アフガンの国連事務所で、私が既に親しく連絡を取り合っている幹部の方に送ってくれた。

しかも、彼女は、私のベトナム戦争の番組に非常に関心を持ってくれた。彼女は学生時代にベトナム戦争の調査をしていて、ベトナムにも行ったことがあり、私のインタビューしたベトナム側高官にも、会ったことがあるということだった。

◇翌週、ベトナムの英語版をもって彼女を訪れると、彼女がにこにこしながら、「紹介したい人がいるの。」と言う。会って名刺を交換すると、目を疑った。アフガン国連事務所で、私にって最も重要な部の部長だった。

調査だけではなく、もしポストがあれば、一年間実際に紛争地域の国連オフィサーとして働くことも視野に入れている私としては、最も会いたい人に、全く偶然、NYでお会いすることができたのである。早速、正式に面会を申し込み、翌日、1時間半に渡ってデイスカッションすることができた。

       ↓コヨーテもやってきた

彼も以前日本に短期間滞在したことのある大の日本ファンで、私の企画についても、心から賛同して、自分の経験を熱く語ってくれた。そして、私の調査への全面協力と、将来また一緒に働くことも含めて、連絡を取り合いたいと話してくれた。

とにかく、一寸先は闇だが、色んな方にお会いできる奇遇自体には、感謝する毎日だった。

◇極めつけは、最後に、政務局の選挙支援部のアフガン担当のS氏に会った時だった。選挙支援部は、三年前に制作した「イラク復興 国連の苦闘」のロケの際、密着取材をし、大変お世話になった部署である。

草木花便りでも書いた通り、その一年後に一学生として、政務局でインターンをした際、この選挙支援部の隣の部屋であった。そのため、支援部の色んな人に会い国連の番組も見てもらい、今、国連が支援している選挙について話を聞いて回った。

その中でもS氏は、非常に番組を評価してくれ、アフガンでの選挙について色々とレクチャーをしてくれた人だった。私もとても親近感を持ち、一緒に居酒屋にいって飲んだりしていて、その頃から最も仲の良い一人だった。

◇一年ほどアフリカに赴任していた彼が、ニューヨークに戻ってきたので、アポを取って会いに行くと、彼は「企画書を読んだよ。マクアスキーの紹介含めて素晴らしい。二年で随分先に進んだね」といって一緒に喜んでくれた。

そして、びっくりする話をしてくれた。「いや実は俺、今度、選挙支援部から、PKO局に移って、アフガンの担当デスクになるんだ。(私をアフガンの部長に紹介してくれた)彼女の後を俺がつぐんだよ」と言ったのだった。

私は、(こういうのを奇遇というのかなー)と思いながら、喜んで私の企画や、将来計画などについて話した。彼は、「君のことはとても尊敬しているし、もちろんできる限りの協力をするよ」と話してくれた。

◇国連以外の所でも奇遇はあった。UBCの教授で常に自分を色んな人に紹介してくれるP教授が、全く自主的に、韓国の国連大使に私を紹介してくれていた。喜んで会うということなので、連絡をしたところ、昼食をセットしてくれた。

国連大使の前は、韓国の外務次官であり、現在バンキブン事務総長の片腕としても、活躍されている大物でもある大使に、ベトナム戦争について私が書いた本の韓国語版(これは、日本に留学していた韓国人の博士課程の方が、自分で岩波書店に交渉して、翻訳版を出してくれたものです。本当に、翻訳をされた徐さんには、感謝しています)をはじめ、色々な文献をわたして、その後日韓関係や、北朝鮮の核問題などについて色々と議論をする。大変な見識の持ち主と聞いていたが、本当に素晴らしい話をたくさん聞くことができた。

しかしその途中、突然、安保理から呼び出され、彼は彼の書記官を残して、途中席を外すことになった。「後で戻ってくるから」と言い残して足早に去る大使の後をついで、秘書でもある一等書記官と色々話す。その際、2003年に韓国の二人の閣僚を密着取材した際に、とてもお世話になった、外相(正確には外交通商相)の秘書官について私が今も感謝している、という話をすると、書記官が
「それは、もしかしてハクのことではないのか」と言うではないか。私が、「そうです」といったら、書記官が少し興奮して「ハクなら、今安保理の担当で国連代表部で働いている。今、電話で大使を呼び出したのが、まさにそのハクだよ」と話した。

安保理での採決が終わり、大使と再び会い、自分の企画について色々とアドバイスをもらう。その後、ハクさんと4年ぶりの対面を果たした。

◇ハクさんは、2003年の韓国取材の時、外相への取材に行き詰まった私たちを助けて、最後まで、自分たちのロケがうまくいくように、努力し続けてくれた人である。彼がいたから、インタビューの時間も、常識外の長さですることができたし、その他様々な外相のロケをさせてもらうことができた。番組が終わった後も、私がお世話になった韓国の方々に挨拶するために戻った際、ハクさんと食事をしたりしていた。

NHKを辞めた際、何度か連絡を取りたいと思いながら、うまく連絡がつかなったそのハク氏に、まさか、この国連の場で会うとは思わなかった。

本当に奇遇だったが、そうした奇遇こそ、乾いた人生に喜びとスリルを与えてくれるものなのかも知れない。

ハク氏は、「東さん。また番組作りに来たのですか」と言いながら、満面の笑みで近寄ってきた。聞くと三年前から国連代表部に来ていたらしい。それでも、ずっと会わなかった。彼の帰任が近づいた今、はじめて会うことができた。

それからお互いのことを語りあった。偶然ながら彼も国連にとても関心があり、おそらく韓国に戻った後も、国連部の部長など関連のある場所で働く可能性が高いということだった。そして私の、PhDを取って将来は駄目でもともとで国連を目指しているという話にも、とても感激してくれて「あなたほどの人が自分の仕事を辞めてまで挑戦しているのですから、絶対大丈夫です。私も応援します。人生は一度しかないのですから。」と声をかけてくれた。本当に、いつ会っても紳士的で素敵な人である。

その後、彼と書記官と、私も最も親しくしていて、大変お世話になっている日本代表部の方と4人で夜ご飯を共にした。日本と韓国のこと、国連のこと、様々なテーマについて話をして盛り上がった。その後、私がバンクーバーに戻る前日、ハクさんともう一度昼ご飯をご一緒した。彼は、私の国連での一ヶ月の成果と様々な奇遇について、心から喜んでくれた。そして「あなたの本も読むし、これからの研究の結果も楽しみにしています」と話してくれた。

◇人生には色々と不思議な縁がある。でもそんな縁を大事にできるかどうかは、その人次第でもある。できる限り、そんな縁を大事にしたい。ハクさんとの思いがけない再会を果たして、改めてそう思った。

お互い、仕事をしている場は違うけれど、同じテーマを追求している以上、きっとまたどこかで一緒に仕事することもあるでしょう。そうお互いに声をかけあって、私達は別れた。

その二日後、私は、さんざんお世話になったマクアスキー氏に挨拶し、ニューヨークを後にした。「またすぐ来るのよね。待っているから」と彼女は、言って送りだしてくれた。

また今回の私の調査には、日本代表部も全面的に賛同して、様々な協力をして下さった。大島大使以下、本当に心からお礼を申しあげたい。

「石の上にも三年」。たしかに形になったものは、少ない。だけど、形に見えない「縁」だって、いやむしろ、形に見えない「奇遇」とそこから生まれる「縁」こそが、最も人生を豊にしてくれるものかも知れない。そんな思いで、このカナダに来てからの三年目を迎えている。

◇最後に、この草木花便りを運営し、私のサイトの一切の編集、管理をして下さっている店主に心から感謝を伝えたい。先月、日本に二週間帰って、様々な方にお会いし、NHKの方にもお会いしたが、みな、私の様子をよく知ってくれている。「草木花便りを読んでいるので、あんまり離れている気がしませんよ」と言われる。先日、ある証明書関係で初めて連絡を取らせて頂いたデイレクターの大先輩の方からも「あなたが辞めた時、とても残念に思いました。でも、草木花便りを読んで、辞めた理由については納得しています」というお便りを頂いた時、このサイトの有り難みを深く感じた。

◇店主が撮った、被爆二世のポプラ並木の清楚なしかし力強い写真をみたとき、やはり共に広島で被爆した両親を持つ二世である私も、なんとか努力を続けなきゃと思った。        
  
◇この先どうなるのか。まずはPhDの試験をなんとか乗り越えたい。その後来る、フィールド調査も危険が伴う難しいものになるであろう。また、国連へのアプライのこと、大学への就職、すべて、先のことは全く分からない。ただ、一歩一歩、目標に向けて、前にあることを越えていく以外ない。たとえ何かがうまくいかなくても、諦めず柔軟に進むしかない。とりあえず、試験さえ終われば、来年以降調査ができる協力体制を、国連本部と現地事務所双方で構築できたのは、やはり運がよかったと思わなければいけない。

三年前に比べて進歩はしてなくても、とりあえず違う環境にはいる。その環境の中で、こつこつと努力を続ける志だけは維持したいと思う。

◇さて、次回以降だが、実は、夏に一週間、カナデイアンロッキーを旅行した。全行程2600キロ。妻がわが家の車で走りきった。カナダに来てから、はじめての長期旅行だった。あまり理屈を述べず、その美しい写真を店主に送って、短い文書だけ添えて、その旅行の様子を少しづつ伝えたいと思う。

<店主より一言>
▼この夏、東君は一時帰国した。2週間くらいの滞在だったと思うが、相変わらず驚くほど精力的に人に会った。おそらく一日に最低6人に会うというハードスケジュールだったのではないか、政財界など中枢にいる人々から我々現場の凡百に至るまで一体何人になるのか、彼のネットワークの広さを改めて目の当たりにした。一度、彼の話を聞くと、誰もが彼の夢を自分の夢のように共有し、その実現のために自分には何ができるだろうか、考えはじめるらしい。彼のネットワークは絶えず進化を続けている。
 今回、彼の頭にはアフガニスタンへのフィールド調査があり、彼が用意した宴の席には、最近アフガニスタンの取材を終え帰国したディレクターもやってきて最新の現地事情を報告した。このあたりが東君の緻密なところだと思う。不安定なアフガニスタンに調査にはいるというのは、一見、無謀なことにみえるが、その背後には実に執拗な取材をして安全の道筋を確保しようとしその目途がたって初めて動く。このあたりの用意周到なところも昔と変わっていない。
 
▼東君がカナダに居を構えたことは、いまさらながら意義深いと思う。
カナダは米国と9000キロにわたって国境を接し、対外輸出の九割が米国市場向け、対外輸入の九割が米国からという、米国とは一心同体の国家のように思える。このカナダが、イラク戦争前夜、イラク戦争への参戦を拒否した。理由は、この戦争が国連安保理の決議によらない、大義に欠けた戦争だから、という理由だった。2001年9月11日の同時多発テロ事件を契機にブッシュ大統領が唱えた「テロとの戦い」にはいち早く支持を表明し、アフガン攻撃の際には軍を派遣したカナダが、イラク戦争に参戦しないと決然と表明したことは世界を驚かした。
▼米国と接し日常的には兄弟のような関係を持ちながらも、超大国との距離を保ち小国としての
自立と矜持を失わないカナダの行動原理に、日本が学ぶべきエッセンスが凝縮されていると思う。そのカナダに住み、ニューヨークの国連本部と日本を行き来する、東氏の行動と思索は、今後の日本にとっては欠かせないものとなる。この「カナダからの便り」を通して、我々も世界の中での日本の行動原理、真の意味での平和の構築の道筋に思いを馳せていくことになろう。東氏の存在はますます大きくなっていく。2007年、日本は「テロ特措法」を巡って大きく揺れる秋を迎える。

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 ※ 「草木花便り」の中での東大作の航跡
「2004年7月19日 曇天に咲く孤高のひまわり(「夢の誠文堂 店主より)」 
「2004年8月27日 オークの樹の下で 東大作 カナダからの便り@」
 
「2004年10月1日 東大作 カナダからの便り A<誤算>」
「2005年1月1日 東大作 カナダからの便り B<私と息子>」
「2005年2月6日 東大作 カナダからの便り C<出会い>」
「2005年3月6日 東大作 カナダからの便り D<壁>」
「2005年5月13日 東大作 カナダからの便り E<年齢>」
「2005年7月26日 東大作 カナダからの便り F<国連にて(1)粘り>」
「2005年10月30日 東大作 カナダからの便り G<国連にて(2)テーマ>」
「2006年2月6日 東大作 カナダからの便り H<カナダと格差>」
「2006年3月3日 東大作 カナダからの便り I<結果とオリンピック>」
「2006年10月6日 東大作 カナダからの便り J<カナダと新渡戸稲造>」
2006年10月30日 東大作 カナダからの便り K<新しい出会い>
2007年4月27日 東大作 カナダからの便り L<コースワーク終了

                      2007年8月23日