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  東大作      オークの樹の下で

 カナダからの便りN 「クライマーズ・ハイ」 
          2008年1
月5

     一連の写真は、東氏の妻(雅江さん)が撮影  ロッキー山脈     



























◇2007年も終わり、年が明け、2008年が来た。今年は、アメリカで大統領選挙があり、21世紀の大国たる中国でオリンピックがあり、そして日本でも、天下分け目の総選挙があるかも知れない年である。

◇振り返ると、8年前の2000年に世界は大きな節目を向かえたと感じる事が多い。一つは、わずか100票差で、ブッシュ大統領が、ゴア大統領候補に勝利し、大統領就任を決めたこと。フロリダ州オレンジ郡のわずか100票が、世界に与えた影響は、筆舌にしがたいものがある。そしてもう一つは、中東和平交渉の最中、イスラエルの当時野党の党首だったシャロン氏が、イスラム教徒の神聖な土地である神殿の丘に足を踏み入れ「ここは永遠にユダヤの土地である」と宣言したこと。この常軌を逸した行動が、パレスチナ人の一斉蜂起(第二次インテイファーダ)、を引き起こし、それに対するイスラエル人の反発により、中東和平を推進していたバラク首相が総選挙で敗れ、シャロン氏が選挙に勝ち、首相になった。これによって、クリントン大統領の仲裁のもと、あと一歩で和平交渉成立まで届いていた中東和平交渉は破綻し、現在まで終わりなき憎しみと報復の連鎖が続いている。この中東和平交渉の破綻が、その後の世界に与えた影響もまた測り知れない。

◇私は、2002年に、2000年当時のパレスチナ、イスラエル双方の和平交渉当事者に密着取材し、NHKスペシャル「憎しみの連鎖はどこまで続くのか」を企画・制作した。その際、パレスチナ側の主人公であったサエブアリカット氏は、去年ブッシュ大統領の肝いりで始まった和平交渉のファタハの交渉責任者を今も務め、アメリカのメデイアにも再三登場している。


◇2001年までの交渉で、イスラエルとパレスチナの双方の交渉当事者は、「たとえどんなに憎しみと暴力が続いても、もし和平を達成するのであれば、この合意内容しかない」というものを築き上げていた。「いつになるかは分からない。でも、いずれ我々はここに戻ってくる。なぜなら、この中東和平の問題に軍事的解決はないからだ。」私達のインタビューに、全く同じように答えたイスラエルとパレスチナの和平交渉責任者たち。その言葉が、果たしてこの2008年の一連の選挙と事件の後、実現の方向に向かって動き出すのだろうか。


◇さて、私の方は、そうした激しい世界の動きの中で、これまでと同じように、こつこつと調査の準備を続けている。いくつかのささやかなニュースと、2008年に向けたプランを書き、今も支えてくれている多くの友人への報告としたい。

 また今回は、2007年8月に妻と子供三人で10日間かけて旅行したロッキー山脈の写真を送ります。






  1)PhDのコンプレヘンシブ試験について

◇おかげさまで、去年12月5日をもって、PhDのコンプレヘンシブ試験(二回の筆記試験と口頭試問)が終わり、無事合格した。ようやく晴れて調査に専念できることになった。前回も書いたように、合計5つの学科の試験を受けるために読むように求められた論文と本があわせて250冊。それを、自分なりにより細かい分野毎に種分けをして、毎日、2つから3つの文献を読み、それを2ページから5ページのノートにまとめた。ノート作りを進めながら、平行して、夜中や空いた時間に、ノートを見返して、筆者の名前のつづりと本の中身を暗記していく。まさに、山を一歩一歩登るような、地味な作業だった。

◇正直言ってこの年で試験勉強は辛い。それでも週に一度は、カナダ人のPhDの同期の学生と集まり、過去問に向き合いながら議論を繰り返し、世界の著名な政治学者の理論が自分のものになるよう努力する。3ヶ月のハードな勉強の後、11月16日に一回目、23日に二回目、それぞれ3問の問題について、限られた時間(5時間)で論文を書いた。

◇12月5日の2時間にわたる口頭試問では、自分の書いた論文の内容をもとに、5人の教授陣が、質問を繰り出す。一つ一つ英語で応えるのも大変だが、なんとか、相手の質問も全て理解できるし、自分の話している内容も相手が分かってくれるのを見ると、3年間、MAの学生からやり始めた意味が少しはあるのかと思ったりした。

◇ 口頭試問が終わった後、5分間ほど、退出を依頼され、その後呼び戻された。「合格です」と最初に言われたときには、おもわず、泣きそうになった。「ありがとうございます。子供も妻も本当に心配していました。ありがとうございます」と私は繰り返した。教授陣もみな笑いながら祝福してくれた。その後、5分間ほど、教授の方からコメントがあったが、「ネイテイブの学生より長く、しかもとても質の高い文章を書けているのでびっくりした。」「質問にもすべて的確に答えている。」など、かなり、手放しの評価で、正直嬉しく思った。

◇ もちろん、試験を受け持った教授5人のうち3人までが、私と同じくらいの歳の相手であり、そう考えると私の喜びなど、遅れてきたものの悲哀かも知れない。

◇ それでも9人の同期のうち、2人が途中で辛さのために断念せざるをえず、更に2人が試験の結果、再試験を課されることになった。みな、英語を第一言語として使うカナダでも最も優秀な学生たちであり、その点、やはり試験を越えたことは、私にとっては大きな峠を越えたことを意味した。



◇何よりも嬉しいのは、あとは、自分の何よりも好きな調査と研究を行い、300枚のPhD論文を書けば、PhD(博士)が取れる状況になったことである。博士が取れる資格をもつ学生を、こちらでは、PhD Candidateと呼ぶ。こ れは、日本における「大学院生」への対応とは異なり、博士の卵で、一番研究に時間を割ける人のことを意味し、調査相手の人たちもそれなりに敬意を持って対応してくれる。その資格を、この試験を越えることで正式に得たことが嬉しかった。

                                ↓突然、現れたビッグ・ホーン・シープ

2)研究助成について


◇また、去年5月から日本のトヨタ財団に今年から行う予定の、フィールド調査、具体的には、アフガニスタンと東チモールの調査に関する研究助成金の申し込みをしていた。

◇ 私は、「日本人で、カナダの大学でPhDを取得しようとしている」、という立場の研究生のため、申し込むことができる研究助成が極めて限られていることが、ずっと悩みの種であった。カナダの研究助成金に申し込むためには、カナダの永住権を持っていなければならない。日本の多くの研究助成金は、日本の大学に籍を置いてなければならない。アメリカの助成金はアメリカに籍がなければならない。

◇ その中で、トヨタ財団は、ほぼ唯一、私が全くのハンデイなしで申し込める研究助成金を公募していた。資格要件として、国籍や肩書き、所属先を一切問わないのである。

◇去年5月10日頃授業が終わり、前回の便りで詳しく書いた、NYでの調査を5月16日に始めるため、実際に申込書に取り組めた時間は数日しかなかった。しかし、自分の「平和構築」のエキスパートになりたいという目標と、既に培った国連とのネットワークを強調し、自分なりに思いを込めた。

◇その最終的な結果が10月に報告され、なんとアフガニスタンで150万円、東チモールで150万円の研究助成が認められた。正直、飛び上がるほど喜んだ。早速、UBCのお世話になっている教授陣に報告すると皆喜んでくれた。学部長は、「是非学部のサイトで報告したい」と書き寄せてくれた。私の指導教官で、4ヶ月間限定でオーストラリアで研究生活を送っていたプライス教授は、「本当ならお祝いで、飲みに連れていきたいくらいだ。本当におめでとう!」とメールを送ってくれた。

◇また、私の研究をずっと応援してくれている、マクアスキー平和構築担当国連事務次長補も、メールを送ると、「素晴らしい!これはあなたの企画にとっては、画期的なことね。本当におめでとう。」とすぐに返事をくれた。

◇以前作っていた番組の予算とは比べられないぐらいの少額ではあるが、それでも、一介の個人として申し込んだ研究企画を認めてもらい、300万円を支出してくれるという結果を得たことは実際嬉しかった。また正直、政治学の研究の助成金としては、かなりの高額である(通常、100万円くらいが相場)。しかも、トヨタ財団の研究助成金は、採択率7%と激戦であった。トヨタ財団とその関係者の方々に心から感謝の気持ちを伝えると共に、なんとか国際的にも価値のある調査・研究をしたいと改めて思った。


◇ とにかく、試験を越え、かつ調査費も獲得したことで、今年から現地調査が出来ることになった。NHKを辞めて3年。ようやく、ジャーナリストではなく、研究者として現地調査をする資格を得た。

  3)妻の合格

◇一方で、妻の雅江さんにとっても大きなニュースがあった。2004年からこつこつと指導法を学び、2005年からいくつもの場所で、カナダ人や中国人、韓国人などを相手に、日本語を教え始めているが、2007年10月に、日本語教師の正式な試験である、「日本語教育能力検定試験」を受験した。一年に一度しかない試験で、かつ、合格率はわずか17%という試験である。しかし二ヶ月間の猛勉強の末、一時帰国して試験を受けて、合格してしまった。
◇彼女なりに、私の就職先が世界中どこになるか分からないのを見通して、キャリアアップに努めてくれている。今は、全部で15人を越える生徒に日本語教えてくれている。これには本当に頭があがらないが、難しいことで定評のある試験に一発で合格したのは、やはり嬉しいニュースだった。心からおめでとうを伝えたい。











  4)今年

◇ 2006年6月からあわせて6回ニューヨークの国連本部に通ったことで、平和構築に関連する部署の部長たちや、実際に調査を行うアフガンや東チモールの担当官とも仲良くなり、色んな協力を得ることができるようになった。12月に試験が終わった後、早速国連本部を訪ね、アフガン担当官にも会い、改めてアフガン領事館からのビザの発行にまつわる、支援なども依頼する。彼も、アフガンの国連事務所もすぐに対応してくれ、今年から2月からアフガンに入ることができることは、間違いない状況になった。

◇ また東チモールについては、カーレ特別代表をはじめ、日本人の国連幹部の方も含め、協力を約束してくれており、かつ日常的にも連絡を取らせて頂いているので、こちらも私の体力さえもてば、今年調査ができる状況であり、実際、2ヶ月間の調査を行う予定である。

◇ 去年から体調を壊すことが多く、さすがに歳を感じざるを得ない。過去三年間、かなり無理をしてきたつけもあると思う。12月20日にニューヨークから帰った後は、とにかく体を休め、体調を整えることに専念している。


◇ 国連本部のPKO局や、平和構築支援室、政務局の政策企画局の人たちの部長クラスの人とも随分仲良くなり、みな、私の調査企画を応援してくれ、「結果を待っている」と期待してくれている。そんな期待に応え、紛争現地で詳細な調査を行い、少しでも、今後の平和構築に役に立つ報告書を書きたい。それが、今年最大の目標である。

◇ その後、PhD論文を書き上げることや、できれば、日本語と英語の双方で本を出版すること、国連やカナダの大学など仕事へのアプライなど、やるべきことは山積みだが、とにかくは、今年は、調査をきちっとやることに専念したいと思う。そしてその体力が自分に残っていることを祈っている。

◇去年の暮れ、上のような思いを、NHKでも最も秀れたデイレクターの一人で、おそらく一生涯現場のデイレクターを貫くであろう、女性デイレクターMさんに書いておくった。去年、産休と介護休暇の双方に追われながら職場復帰を果たし、今も、優れた特集番組の制作のために日夜奮闘されているMさんから、「東君には登山家のイメージがある。一つ一つ壁を越えてなんとか目標に向かっていって欲しい。」という、なんとも有り難い、励ましの言葉を頂いた。


◇ Mさんのメールを頂いたまさに前日、以前から読みたいと思っていた横山秀夫氏の「クライマーズ・ハイ」を読み終わっていた。

◇ 横山氏は、12年間、上毛新聞の記者を務めた後、推理作家になった人で、彼の真面目な素顔を紹介したNHKの番組(キーパーソンズ)を見たことは、私の三年前の決断にもそれなりに影響を与えていた。その後、彼の本を読んで感銘するのは、個人の尊厳を貫くために組織を辞めるかどうかぎりぎりまで迷いながら、最後は、「組織に残る」決断をした男性や女性の姿を、極めて温かい目線で描き、その生き様を讃えていることである。

◇ 組織の中で葛藤する我々現代人への、心からの賛歌といってもいい彼の作品を読むたびに、胸に熱いものを覚える。

◇クライマーズ・ハイは、横山氏の作品でも間違いない代表作で、ずっと読みたいと思っていたが、精神的な余裕が持てるまで三年かかってしまった。

◇ 御巣鷹山・日航機墜落事故の後の一週間、地元新聞社の記者たちとデスクの決断を描いた作品だが、読んでいて、なんども涙を抑えられない作品だった。

◇ 一気に読み終えた翌日、Mデイレクターからメールを頂き、ある種の感慨を感じざるを得なかった。


◇ 「クライマーズ・ハイ」という言葉は、「ナチュラル・ハイ」の対の言葉で、山を登っていると、一種の陶酔状態になって、恐怖感が消え失せ、一気に上へ上へと登ろうとしてしまう、精神状態を指す。しかし、ある意味では恐ろしい状態で、一旦クライマーズ・ハイの状態から解かれると、恐怖感が押し寄せ、そこから一歩も前に進めなくなる状態にもなるという。

◇ 本を読み、またMさんからのメールを読んだ時、「私も、一種の『クライマーズ・ハイ』の状態なのかも知れないな」、と思った。その結果がどうなるかは全く分からない。それでも、歩ける間は、とにかく歩き続けたいと思う。


◇横山氏の著作「クライマーズ・ハイ」の最後では、日航事件の全権デスクを任された主人公が、自分の信念を貫き通す。その結果、独裁体制を敷く社長から、新聞社を辞めるか、地方の通信部で一生を終えるかの、選択を強いられる。


 一度は辞めると決心した主人公に、同期の親友が激しく語り始める。

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> 親友「家族はどうやって食わすんだ」
> 主人公「なんとかする」
> 親友「無責任なことを言うな」
> 主人公「景気はいい。職は幾らもある」
> 親友「嘘だったのか」
> 主人公「何がだ」
> 親友「前に飲んだときにいったろう」
> 主人公「俺が何を言った」
> 親友「この仕事が好きだ。俺は一生書き続ける。そう言った」
> 主人公「若い頃の話だ」
> 親友「俺はこの耳で聞いた」
> 主人公「事情が変わった」
> 親友「変わってないだろうが」
> 親友は、怒声と共に襟首を掴み主人公に向かって叫んだ。
> 「飼い犬が嫌なら、野犬にでも山犬にでもなればいいじゃないか。そこで書き続けろ。桜便りや夏祭り、あゆの放流、何でも書けって!」


◇ 主人公は、この同僚の言葉と、周囲の励ましの言葉を聞き、最後の土壇場、一通信部記者として生きていくことを決断した。

◇その後17年間、主人公は、地方で通信部記者を勤め上げる。退職が迫ったある日、主人公は、日航事故の日に植物人間となった友人の息子と、谷川岳の最難関の岸壁を登り切り、記者の仕事を辞める(仕事を下りる)ことをしなかった自分について述懐する。

「下りずに過ごす人生だって捨てたものじゃないと思う。生まれてから死ぬまで、懸命に走り続ける。転んでも、傷ついても、たとえ敗北を喫しようとも、また立ち上がり走り続ける。人の幸せとは、案外そんな道々出会うものではないだろうか。クライマーズ・ハイ。一心に上を見上げ、脇目もふらずにだたひたすら登り続ける。そんな一生を送れたらいいと思うようになった」

◇ この言葉を、Mさんを含め、現場やデスク、そして編成や人事の場で、少しでもよい番組を出そうと奮闘を続ける多くのNHKの仲間に送りたいと思った。そして私も、NHKという組織は離れたものの、カナダの大学でも、アメリカの大学でも、国連でも、どんな組織に今後属しようとも、この主人公のように書くことを続けたい。

◇ たとえ小さな大学の先生に落ち着いたとしても、いつまでも助成金に応募し、紛争地やその復興地に足を踏み入れ、調査を行い、英語と日本語で論文や本を書き、社会に訴える。そんなささいな行為を続けたいと痛烈に思う。

◇そして、またいつか、NHKで踏ん張ってジャーナリストとして使命を果たしている人たちと、企画の相談でも、コメントの監修でも、どんな形でもいいから、また一緒に仕事をしたいと夢見ている。そのためにもまずは、平和構築のエキスパートになれるよう、努力を続けなければならない。

その最初の一歩、今年の調査をちゃんとやりたいなと思いつつ、新年を迎えている。







  











<店主より一言>
▼新しい年を迎えるにふさわしい、清風がカナダから寄せられて、この「草木花便り」は今年もなんとか船出できたように思う。今回ほど、東君に感謝することはない。君の孤高の志が着実に積み上げられていくことが店主にとってはなによりの励みになっている。、雅江さんが撮影した見事なカナディアンロッキーの自然と君の近況報告を並べてみると、2600キロの行程がそのまま君と雅江さんの人生行路のようにもみえてくる。おかげで、再び長い鬱期に入りかけていた店主の心根が少しずつ潤いはじめているのを感じる。ありがとう。
▼「クライマーズ・ハイ」 走り続ける君に、ささやかながら私も併走できればと思う。公共放送という組織の檻にいるだけで公の志が持続するわけではない。東君のように弧となり、改めて「私の中の公」について自問自答している姿は、定年後も走り続けたいとささやかに思う自分にとっての羅針盤でもある。何に出会うのか、不安があるが、自分なりに誇りを失わず「私の中の公」を追い求めていきたいと思う。
 最近、座右の銘にしている、京都の陶芸作家・河井寛次郎の言葉を贈ります。
     
      新しい自分が見たいのだ 仕事する

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 ※ 「草木花便り」の中での東大作の航跡
「2004年7月19日 曇天に咲く孤高のひまわり(「夢の誠文堂 店主より)」 
「2004年8月27日 オークの樹の下で 東大作 カナダからの便り@」 「10月1日 A<誤算>」
「2005年1月1日B<私と息子>」「2月6日C<出会い>」「3月6日D<壁>」「5月13日E<年齢>」「7月26日F<国連にて(1)粘り>」「G<国連にて(2)テーマ>」
「2006年2月6日H<カナダと格差>」「3月3日I<結果とオリンピック>」「10月6日J<カナダと新渡戸稲造>」
10月30日K<新しい出会い>2007年4月27日L<コースワーク終了
「2007年8月23日M<奇遇と三年>

                      2008年1月5日