シラン(紫蘭)/ ラン科ラン属。本州中部地方以西の山地で日当たりのいい湿地などに自生し、朝鮮半島、台湾、中国の雲南、四川にも分布する。地中浅くに、平たい球形の茎(偽球茎)を連ねている。これを晩夏から晩秋にかけて堀り上げ、蒸してから外皮をはいで陽乾させたものが生薬の白及(はくきゅう)。肺結核の喀血や胃潰瘍の吐血などの止血に効果がある。またこの偽球茎は粘性があるので、名古屋地方では七宝細工の接着剤にも使われる。花言葉は、「互いに忘れないように」・「美しい姿」 、そして「無名戦士」
▼もう80年以上も前の昔の話である。九州の久留米、筑後平野のまんなかに、水田村大字高井というおよそ90世帯が暮らす集落があった。村人の多くは、米作りをしながら家では小さな久留米絣の機織場を営んでいた。各家には二人から三人の織子がいた。休みは正月と盆だけ、早朝5時頃から夜中の12時頃までひたすら久留米絣を織り続けた。村にはいつもガッタン、ガッタンという音が響き渡っていた。農家の中には朝鮮半島から若い娘を連れてきて織子にしていたところもあった。白いチョゴリを着た若い織子が「アイゴー、アイゴー」と泣く声が、夜、筑後の田んぼに染みいった。
▼その半農半工の家の一つ、民蔵の家には3人の男の子と1人の女の子がいた。民蔵は村の知恵者として頼りにされていた。村の久留米絣の図案はすべて民蔵が示した。村人は民蔵が示した図案にそって、絣を織った。村の世話役として細々としたことを全てしきってくれるのが民蔵だった。
▼三男の幸雄が5歳の時、母がなくなった。母の死の直前,父・民蔵は幸雄にこう言った。
「よく見ておけ、これがお前のお母さんだ。しっかりと覚えておくんだ。」 母の顔は思い出せないが抱きしめられた父から出た言葉はしっかりと刻まれている。
それからほどなく父・民蔵も胃を悪くして、病に倒れた。村の選挙の書記係としてかり出された時、馬肉を食べたのが原因ではないか、村人はうわさした。薬屋が胃薬を持って頻繁に家に出入りするようになった。父は胃が痛み出すとソーダ水をがぶ飲みした。呑気な田舎医者はたまにしか来てくれなかった。医者は人力車の乗ってやってきた。広大な水田、蛙が賑やかに群れ鳴く畦道を、医者は人力車の上で呑気に新聞を広げて読みながらやってきた。
▼父・民蔵が寝込んでからというもの、家はあっという間に貧しくなった。民蔵は人減らしとして子どもたちを奉公に出さざるをえなくなった。尋常高等小学校2年生の2学期、長兄は中津の本屋に奉公にだされることになった。「学校をやめたくない。」と長兄はなきじゃくった。長兄が無理やり手を引かれて家をでていく光景を、三男の幸雄は今も忘れない。
▼次男の良雄は要領のいい子だった。担任の先生からこんなに好かれた子もないだろう。「わしの子にくれ。」と教師が本気で頼み込んだこともある。良雄は小学校の頃から、「わしは満州に行く。」と口癖のように言っていた。「小学生の分際で・・」村の大人たちは笑った。その良雄も雑貨屋に奉公にいくことになった。それが決まった矢先、父・民蔵は逝った。3人の兄弟と1人の妹が貧困の中、身よりもないなな取り残された。
▼奉公にでた良雄は「こんなに商才のある子はみたことがない。」と主人を驚かされた。そのまま辛抱強く勤めていればいいものを、なぜか良雄は突然、辞職し、その後も、呉服屋、鉄工所と職場を次々にかえていった。末っ子の幸雄も酒屋に奉公していた。甘えん坊の幸雄は毎日、その孤独に押しつぶされそうで泣いて暮らしていた。そんな時、何の前触れもなく、ひょっこりと兄の良雄が現われた。「お前、元気か?」「元気かって、兄ちゃんこそどうしていたんだ、今どこにいるの?」 兄はにっこり笑って弟に金を渡す。ある時は、食堂に連れ出し「ほしいものなんでも食べろ」と気前よく言う。そして再び消えてしまった。或る時、幸雄は風邪を引いた。その時撮ったレントゲン写真が真っ白だった。医者は結核と診断し、即、隔離だと言い渡した。しかし、症状は良くなっている。もう風邪はなおったように思う。どうしようか、と思っていると、兄が現われた。「熱も引いている。もう大丈夫なんだろ。」「うん、でも、隔離されるって」「治っているんだ。レントゲン写真なんて信用するな。よし、病院から逃げ出すぞ。」 兄は弟の手を引いて駆け出した。
▼戦争が始まった。3兄弟はそれぞれ兵隊になった。奉公を続けるより兵隊になったほうが生活が楽になると思った。長男は苦学して軍医になった。三男の幸雄は海軍に入って通信兵となった。そして、次男の良雄は陸軍に入り、広島から船出し、南方にわたったという連絡が入った。
▼終戦後、幸雄は、青島沖で機雷の処理をしたあと故郷に戻った。水田村大字高井で、幸雄と同級生の男の子は10人いた。そのうち6人が戦死していた。
帰郷してまもなく、茨城県から一通の手紙が届いた。差出人は次兄・良雄の属していた部隊の小隊長だった。良雄はインパール作戦に参加していた。ビルマとインド国境のコヒマで良雄たちは英軍とぶつかり敗走した。手紙にはその時の模様が書き連ねてあった。
「・・・・・・日本では想像できない大雨が降り続いていました。私たちはゆくあてもなく山の中を敗走しました。その時、良雄君はマラリアにおかされていました。皆の肩にかつがれてやっと歩ける状態でした。・・・・、やがて、良雄君がふりしぼるように言いました。 『もういいから、自分を自分をここに置いて、行ってくれ』と・・・・・。私たちは草の中に良雄君を寝かせて・・・・行きました。 もし万が一、生きていれば、後を追ってきたイギリス兵に捕虜にされるかもしれない・・・・そう願うばかりです。・・・・」
兄が寝かされた草の上、そこは水浸しだったにちがいない。勝つ見込みのない戦闘、食べるものは当初から何も用意されず民家から略奪すればいいとする無責任極まりない暴挙。その常軌を逸した作戦の中で、もっとも自分を愛し支えてくれた兄が生け贄にされた。なぜ、こんな理不尽な目に遭わなければならないのか・・・・・・
▼九州の貧しい農家に育ち、懸命に働き、無名戦士として戦場を駆けた兄弟達。わが父、幸雄は、怒りをこめて戦場の惨禍を語り、兄・良雄の最期の姿に思いを馳せるくだりになると、いつものように涙にあふれ、いつものように話はそこで止まった。
▼ 雲南から朝鮮半島、そして日本列島にかけての湿地に自生する紫蘭の花、その花に?無名戦士?の花言葉をつけたのは誰だろうか。その人こそ、銃弾に倒れた草むらで目の前に飛び込んできた艶やかな紫を忘れられなかった名もない兵士だったのかもしれない。紫蘭を見かけるとそんなことをふと思う。