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2015年07月12日

●格別の「父と暮らせば」


鷺草(さぎそう)/ラン科ミズトンボ(ハベナリア)属 学名のHabenariaは、ラテン語で「手綱」を意味するが、葯の形に因む。湿地に生える。白く広い唇弁は左右に多数切り込む。それを鷺の翼に見立てた。花言葉は、しんの強さ・発展・名伯楽

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▼今年も、新宿・紀伊國屋サザンシアターで、こまつ座公演の「父と暮らせば」を観た。なぜ、今年、こんなにも涙が頬を伝い、これまで以上に、井上ひさしの台詞ひとつひとつが心の隅々まで染みわたるのだろうか。それは戦後70年だからという“論”ではない。一重に、美津江役の栗田桃子の清楚な特別の感性が、切ない台詞の一つ一つを精錬して、それが竹造役の辻萬長の野太い声を轟かせ、ホールの人々は笑い、泣き、一体となって打ち震えた。
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▼美津江役の栗田桃子の父親、役者の蟹江敬三は昨年、亡くなった。娘は喪に服しながら喪失の痛手の渦中に舞台に立った。そのことが、ここまで、作品をさらに浄化したに違いない。
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▼「すべての手記を読んだわけではありませんが、それでも手に入った手記を数百編、拝むようにして読み、そこからいくつもの切ない言葉を拝借して、あのときの爆心地の様子を想像しました。そして、それらの切ない言葉を再構成したのが、この戯曲です。そのときのわたしは、『これらの切ない言葉よ、世界中にひろがれ』と何百回となく呟きながら書いていました。」(井上ひさし 2003年4月)
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▼ありがたい時間を過ごすことができた。深謝!

2015年07月11日

●再びの芽



▼鬱陶しい雨がおさまった日、ベランダに出た妻が見つけた。「あの枯れ枝から芽が出ているわよ。」言われてベランダにでると確かに、わずかばかりの緑が健気に顔を出している。
▼1年前、会社の窓際の一角に、もらったグアバナの種をまいた小さな鉢を置いた。若いスタッフが、メキシコからのお土産として持ってきてくれたものだ。

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▼グアバナは、森のカスタードアイスと呼ばれ緑色でイボのような黒い粒がたくさんついていて、白い繊維質の果実は香りが強く、甘酸っぱいトロピカルフルーツだという。ひょっとしたらいつか実をつけるかもしれない、淡い期待をもって、机の後ろに備えた。
▼それから一年、管理職の立場を去る内示を受けた。その直後、関連づけるの情緒に走りすぎでいやらしいが、グアバナにカビが生え酸素不足に陥ったのか、あっという間に葉が散りか細い枯れ枝1本となった。あわてて家に持ち帰り、もう手遅れかもしれないと思いつつ、根を洗い植え替えた、
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▼新しい職場に移って2週間が過ぎた。人を管理する、人の人事に関わるという、やっかいな責任から解放された。会議のない日々、時間を自分で管理するという最大の贅沢を得て、自分の中で「ナノ・カンパニー」の旗を掲げ、これからは「人間という肩書き」で堂々と生きていこうと思う。
▼雨模様の日々の間隙にわずかに雲間から差した陽を受けて、謙虚に輝く「再びの芽」は、あらたな行く手を示してくれる連旗のように見えるのはまだ転機を迎えた感傷の中にあるからかもしれない。