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  東大作  カブールからの便り
          2008年2
月23

     アフガニスタン・カブール 一連の写真は、東氏撮影
























> 現在アフガニスタンの首都、カブールからこの手紙を書いている。私の人生にとって最初の「平和構築」のための現場調査。今夜は、その最後の夜でもある。

> とにかく人に会い続けた2週間であった。数えると、12日間で40を越えるミーテイングをこなしていた。大体一回1時間から2時間、UNAMA(国連政治ミッション)、WFP(世界食糧計画)、UNDP、UNHCRなど国連の様々な組織の代表と幹部、アフガン政府の大臣、副大臣、そしてその幹部、更に、日本大使やJICAの人たちなど、分単位でミーテイングをこなす毎日だった。そのミーテイングをこなしながら、次のミーテイングの交渉を繰り返していた。


> それでも、ほぼ全てのUN組織のトップと幹部、そして私の関心がある政策の担当者と会うことができた、。そしてみな、私の企画に身を乗り出し、非常にタイムリーな調査だと、誉めてくれ、色々な体験談や実情を語り、そして5月の中旬から始める二回目の調査について、全面的な協力を約束してくれた。そうした対応に非常に感謝し、また充実した思いで過ごしてもいた。

> この調査を可能にしてくれた、引き受け先である国連政治ミッション(UNAMA)をはじめ、多くの人たちに心から感謝を伝えたい。

> 2月10日に中東のドバイ経由で、カブールに入って以来、一日の休みもなく、またたくまに12日間がすぎた。滞在の細かい内容を今書くのは、ちょっと体力的にもしんどい。でも、カブールから手紙を送ることに意味があると思って書く。



> 10日にホテルに入ったとき、正直ちょっと驚いた。一応、ちゃんとテレビもあり、衛星放送がつながっていて、BBCやCNN,そしてNHKまで見ることができる。また湯沸かしポットもついていたし、シャワーも熱い湯が出る。インターネットも、たまに切れることがあっても、一応ちゃんと使えて、メールも自由に送信できる。

> 一日60ドルという、決して高級ホテルではないこのホテルで、こうしたサービスを受けることができたことは、ちょっと驚きだった。

> カブールは氷点下20度の厳寒になると聞き、それを怖れて、暖かい下着や、部屋ではく暖かいスリッパ、などを持って来たが、最初はそれがとても役にたった。

> 部屋には一応暖房があるものの、全館一斉で、部屋毎に温度が調整できるわけではなく、最初の日の夜はとても寒かった。翌日から毛布を持ってきてもらい、ようやくしのげるようになった。

> 早速その様子を、東京の両親と妹、そしてバンクーバーにいる妻の雅江と9歳の息子、たいちゃんに、写真つきで送る。今回は妻がいないので、写真は自分の担当である。妻からは、「たいちゃんが、『パパにはボデイガードがついているのか』と聞くから『ボデイガードはいないけど安全な所しかいかないから大丈夫』と言っておきました」というメールをもらい、思わずぐっときた。


                        ↓市内には信号がほとんどなく人の手で
                                           交通整理
                        交通渋滞はカブールの大問題


> 翌日から早速調査である。UNAMAの補佐官で、私の調査の担当になって下さった、ラオス出身のAさんが、親身になって色々と助けてくれる。

> また、ホテルから国連事務所への往復なども危険なため、タクシーなどは絶対使えない。そのため、すべての行動は現地のコーデイネーターと共にすることになる。

> 今回幸運だったのは、NHKでアフガンに何度も来ているデイレクターの人から、その最も信頼するハリッド君を紹介してもらったことである。その彼が二週間私と行動を共にしてくれた。そして、ハリッド君の弟のアブダル君が、ドライバーを務めてくれた。


←カブールのバス停は日本の援助で作られた。すべてのバス停には日の丸が描かれている。

> まずは、去年ニューヨークで会って以来仲良くなっていた政治部の部長と会い、誰と会うべきかについて詳細なアドバイスを受ける。

> 彼は自分のフロアーの一人一人に私とその企画を説明し、協力するよう言ってくれる。

> また、在アフガニスタン日本大使からもいろいろと親切なアドバイスを受け、その紹介もあって、アフガン政府の枢要な組織の大臣や副大臣も紹介して頂くことができた。

> その上で、UNAMAの政治部のトップである、クリストファー・アレクサンダー氏に会い、一時間に渡って、私の企画についての彼の考えとアドバイスを受ける。

> クリス氏は、若干39歳、私より一年しか違わないのに、一昨年までカナダのアフガン大使であり、一昨年からUNAMAのNo 2である、事務総長特別代表補(政治担当)に就任した、カナダ 外交界の若きエースである。

> たまたま私がカナダの大学から来ていることもあって、「どうだい、バンクーバーの生活は」から始まって、私の調査や、私の将来の国連へのアプライなどについても色々と相談にのってくれる。事前に送った企画書や、その企画を応援する、キャロリンマクアスキー平和構築担当国連事務次長補の手紙や、日本の国連大使の手紙なども、全て事前に読んでくれていて、「とても素晴らしい(Impressive)」と、言ってくれた。

> といっても、私と一年しか先輩でない彼の役職と、一学生である自分を比べると悲しくなって落ち込みそうになったが、カブールまで来て落ち込んでいても仕方無いので、一生懸命話し、彼の意見を聞き、誰に会うべきか、更にアドバイスを受ける。

> 会談後、彼もすぐに会うべきだと推薦してくれた人に、自分のアシスタントから私を紹介するメールを送らせて、私が会いやすいようにしてくれる。親切さが身にしみた。

> さて、この私の企画であるが、これまでちゃんと説明したことがなかった。今日、これからそれをきちっと説明するのは辛いので簡単にするが、要は、「どのような政策を実行すれば、平和構築者(国連など国際組織と、現地の政府の双方)が、現地の住民や政治指導者から『信頼』されるようになるのか。その信頼の構築によって、これまで戦ってきた軍閥や部族が、軍備を解体し、政党を作り、選挙に参加し、憲法を作り、そしてその後も、暴力を使わずに民主的なルールに則って、政治を進めていくことができるようになるのか」を調査する、というテーマである。

> 英語ではLegitimacy Building という名前になるが、なかなか日本語では訳しづらく、正統性というより、むしろ信頼に近いのではと私は感じている。

> とにかくこうした信頼がなければ、とても軍備解体などできない。軍備解体した途端に、政府軍に拉致されて、監獄に入れられると思ったら、最後までその部族や軍閥は戦うであろう。またプロセスが公平だったと信頼することで初めて、選挙でたとえ負けても、まあ次の選挙まで野党で頑張ろう、ということにもなる。

> こうした政治プロセスを繰り返す中で、徐々に軍閥や部族が政治政党化し、これまで武力で戦ってきた関係が、民主的なルールにそった政治の場で、問題を調停、解決していけるようになる。つまり、武力ではなく平和的な手段で、ものごとを解決しようということが定着し、平和の定着につながっていく。

> そのために最も重要なのが、この「正統性、もしくは信頼」と訳される「Legitimacy」ではないか、と私は仮説している。そして、そのことは、多くの学者や国連で平和構築に携わってきた実務家が、意見を共有している。

> しかし、では一体どうしたら、このLegitimacy(信頼や正統性)を、平和構築の対象となる現地の住民や政治指導者から得ることができるのか。この肝要な点について、具体的な調査はこれまでされてこなかった。

> L:egitimacyの議論が、政治学の現場でここ数年急速に盛んになったのは、特にイラクにおけるアメリカの占領統治の失敗が、きっかけである。アメリカが世界最大の軍隊と資金を投入しても、イラクの平和構築は挫折した。その最大の原因は、イラクの住民から見て、アメリカの侵攻が「正統性がないもの」に見えたからではないか、という指摘が、アメリカの学者で、実際にイラク占領のアドバイザーとして携わった人の間からも多く主張されている。

> そして途中からアメリカが政策を転換し、国連に再度介入を求めて、選挙の実施の主役を担うよう求めたのは、まさにこの、「国連ならば、誰かのえこひいきをせず、公正に選挙をしてくれるのではないか」という国連だけが持つ「Legitimacy」を必要としたからだ、という議論が、現在政治学者の間で盛んにされているのだ。

> その2004年のアメリカと国連の攻防をNYの現場の第一線で取材し目撃したことが、私の現在の調査の原点になっている。

> 具体的には、どんな役割を国連が担った時に、より高い信頼が構築されるのか。国家建設において、どんな勢力を取り込んだ場合、新たな政府の正統性がより高まるのか。水道や電気、医療など公共サービスの普及がどのように、政府の信頼に影響を与えるのか。

> その信頼が、軍備解体や、選挙への参加、武力攻撃の中止などの実際の行動に、どういう影響を与えているのか。

> そうした点について調査するため、まず、平和構築のために実施されている政策を把握し、その成果や実績を、聞き取りやデーターで把握する。更にそれを現場で確認し、うまくいっている場合には、どうしてうまくいっているのか。その場合、政府への信頼が、人々や行動にどんな影響を与えているのか。うまくいっていない場合は、どうしてうまくいっていないのか。

> そうしたことを、三つぐらいの国で横断的、かつ詳細に調査して、少しでも将来への教訓を引き出したいというのが、簡単に言うと私の調査の目的である。

↓カブールの和解委員会の事務所に貼って
あるポスター。タリバンと離れれば社会復帰
できる、と書かれ、和解への手続きが説明し
てある。
                          

> これまでニューヨークの国連幹部に聞いてきたことを参考にして、5つぐらい重要と思われるファクターを仮説し、それに添って聞き取りを進めていく。国連の役割、多国籍軍との調整の問題、タリバンなど反政府勢力との和解の問題、日本も中心的な役割を果たしている地方軍閥の軍備解体のプログラム、そして、成功を収めてきたといわれる地域の住民主導の農村開発の実際などを、まず、国連やアフガン政府など、平和構築をしようとしている側から聞き出し、資料をもらっていくのが、今回の調査の目的だった。

> そして次回、今度は一月半滞在し、そうした政策を受け取る側である地方の住民や政治指導者への聞き取りや調査を行う予定であり、今回はそのための協力を取り付けることも、また目的の一つであった。

> 前述したクリス氏は、そうした地域への調査も全面的に賛成し、UNAMAが普段行っている地方視察に私が同行し、好きな調査をしていいことを約束してくれた。

> その後、20人近いUNAMAの政務官にかたっばしから会い、それぞれの政策について聞く。また平和構築に関するプログラムを数多く持つUNDPについても、国連の各組織の代表会議のあと、UNDPの代表に直接話しかけ、キャロリンの手紙などを見せて話をして、時間をセットしてもらう。彼女も、一時間にわたって、「今、こんなにタイムリーな調査はないわ」と言って、自分の考えを熱く語ってくれた。

> それに加え、NYのUNDPの人から事前に紹介してもらっていた副代表の人が、親切に色々な人を紹介してくれる。副代表のヘンリさんは、昔ベトナムにいて、ボーグエンザップ将軍にもインタビューしたことがあるということで、私もグエン将軍をインタビューしたこともあり、その話でも盛り上がった。

> また奇遇はここでもあった。先に述べた国連代表者会議に出た際、リストを見ていると、なんと4年前、中国でインタビューしたWFPの北朝鮮本部の代表者だった人の名前があるではないか。

> 私は会議のあと、彼の元に走り、「3年前、北京でインタビューをした東です」というと彼も覚えていてくれて、「おーどうしたんだ」と言ってくれた。すぐに名刺を交換し、三日後に会い、私のテーマについて、彼が住民との信頼を築く上でもっとも重要だと思っていることについて、堅固な理論のもとで話してくれる。

> それにしても、平壌で三年代表を務めた後、カブールでまた代表を務める彼には本当に頭が下がる。現在、国連全職員について、外での外食が禁じされている。危険だからである。つまり、現地視察を別にして、カブールでは、原則、家と事務所を往復することしかできない。
                                  
                                   ↓アフガンの国会(下院)
> そうした状況の中で、食糧を貧しい人に届けるという、もっとも大事なプログラムのために、北朝鮮やアフガニスタンなど過酷な現場で働く彼からは、敬虔な何かを感じざるを得なかった。

> こうした国連関係者と会いつつ、アフガン政府関係者との面会の交渉を進める。その結果、大統領府にある、軍備解体プログラムを進める委員会の代表や、タリバンとの和解委員会の事務局長を務める人物などにも会い、それぞれのプログラムの進捗状況や課題、これからの目標などを聞く。



  ↓国会にはモニターもある
                                                          
↓約240人の下院議員のうち17人が女性

















> さらに、地方農村復興開発省という、アフガニスタンでは最大の省の幹部とも会い、次回の調査への協力を取り付ける。ただ、大臣へのインタビューについては、大臣が外国に滞在中だったのでできなかった。大臣の秘書やアドバイザーはみな、「次はインタビューもできるし、地方での動きも全部見てもらうことができると思う」と全面的に協力を約束してくれた。このあたり、日本に対する信頼や期待の大きさを感じて、とても嬉しく思う。



←黄昏時のホテル前。向こうに雪山が見える。


> また私の泊まっているホテルには、JICAから派遣されている多くの調査員の方や政府支援に携わっている方々がいて、彼らから、夜ご飯を食べながら聞ける話がとても勉強になった。一度は私が呼びかけて、夜7時半から10時まで勉強会をしたこともあった。

> 農村開発、地方行政府や地方議会設立に向けた動きと課題、そして軍備解体プログラム、和解プログラム、そして来年とも言われる選挙など、平和構築に向けた中心となるプログラムの実績、困難、それを打開するための動きなどを、かなり詳細に聞き取り、現地でしか入らない資料も手に入れることができた。
>
> また、三年前から始まった国会も見学させて頂き、そのやりとりなども細かく見せて頂いた。


                           ↓ 国連カブール事務所での上映会
> 最後に感激したのは、UNAMAのカブール地方事務所のイタリア人の所長が、私が以前制作した「イラク復興 国連の苦闘」と「我々はなぜ戦争をしたのか。ベトナム戦争敵との対話」を見てとても感激してくれ、なんと、彼の事務所にいる国際スタッフとアフガン人のスタッフ30人を集めて、二時間にわたる上映会をしてくれたのである。

> そのあとおよそ1時間、そのスタッフと私の間で議論ができた。私が自分の企画について説明すると、スタッフから、政府に対する信頼や、正統性がいかに揺らぎつつあるか、その中で国連職員として抱く苦悩などを、かなり率直にぶつけてくれた。現地のアフガンスタッフの人が、多く手をあげて、静かながらも真剣な話を聞かせてくれたことが、何より嬉しかった。

> 次回は、この所長との相談のもと、このスタッフの人たちと視察を行うことになる。所長が私の番組を見せて私とハリッド君を紹介してくれたのは、そんな理由もあった。所長の思いやりに感激すると共に、なんとかよい調査をしたいと強く思う。

> その後、もう一度クリスに会い、2週間の成果を報告し、正式なインタビューもさせてもらう。「また会おうね」と言いあって別れた。

                         ↓ 左が国連で軍備解体を担当しているアブダル君
                         右がコーディネーターのハリッド君

> その後、ハリッド君の昔からの友人で、現在、国連に所属して軍備解体を担当する仕事をしているアブドラ君に会う。まだ20代中盤の若い彼が、旧司令官一人一人に会い、「武器を手放した方がいい。もう警察もいるんだし、多国籍軍の存在もある。武器をあなたたちが手放せば、この地域に、大きな経済援助が実施されることになる(それが現在の軍備解体プログラムの核になっている)。だからここで武器を離せば、あなた自身、地域の人からとても感謝され、信頼されるようになる」と言って交渉している、というなまなましい話を、二時間にわたって聞く。

> 彼のような若い人がプログラムの中心になり、平和作りに奮闘している事実。そのことは、やはり感動的だった。やはり、私達はこんな人たちを支え、応援しなければいけないと、肌で実感した。


> 一般の人たちの話も聞きたいと、ハリッド君の紹介で彼の親戚の家を訪問した。やはり、親戚の家とかでないと、誰が誰に連絡して、どうなるか分からない危険があると、ハリッド君もやはり、友人の家に行くことは心配してくれ、親戚の家の人を訪問することなった。

> その人は、今は失業中であるが、6人の子供のうち三人は働いていた。そして一応、生活はできているという話だった。「色々不満はあるけど、タリバンの時よりははるかにまし。タリバンの時は全く制度がなかった。今は、こうして平和に過ごせるだけでも幸せ。国連はアメリカとタリバンの戦いの仲介をしてくれているのだと思う。」と、とても穏健な意見を聞かせてくれた。


> その家を訪ねるにあたって、クッキーを買ったのだが、その店の人の雰囲気がとてもよかったので、今日、最終日に再度訪れた。

> 店にいったら、今日は別の人だった。その人に聞くと、やはり現在、日常生活の安全が如何に脅かされているかを、真剣に語ってくれた。

> 店を開いていても全く油断できない。自転車を一分外においておくと取られる。つい三日前にも兄弟の家に強盗が入り、全員縛られて、家の中のものをごっそり盗まれてしまった。警察に行っても何もしてもらえない。

> タリバンの時は、恐怖政治だったが、強盗や殺人など、犯罪とは無縁だった。今は、自由も民主主義も得たが、どんどん安全がなくなっている。

> また昔は電気や水道も24時間あったが、今は、カブールの人口が爆発的に増えたこともあって、電気も二日に一度、夜しか届かない。どんどん、公共サービスの状況が悪くなっている、と語ってくれた。そして政府も国連も、何もしていない、と淡々と、しかり怒りを持って話してくれた。

> しかし、タリバンが戻ってきて欲しいとも思わない。タリバンの時代の様々な恐怖を思い出すと、辛くなる。しかし今の政府も全く期待に応えてくれていない。どちらも信頼できない彼のジレンマと苦しさが、話している間に伝わってきた。

> しかし、私が色々と聞きすぎたのであろうか。最後に写真を撮ってもいいですかと聞くと、「いい」と最初答えたものの、店の写真をとった後、彼自身を撮らせてもらおうとすると「やめて下さい」と拒否された。

> 私は、「色々と辛い話をさせてしまって申し訳ありませんでした。」と何度も謝って店を出た。

> 車の中でハリッド君が言った。「話をしている内に、彼は『もし私達が秘密警察だったら』と怖くなったのだと思う。」

> 「この国は過去20何年間、ずっと戦争だったんです。どの政権もちゃんとしたことをしてくれなかった。人々は誰も信頼できなくなっているんです。そして監獄に入れられたら最後、どこかに訴えて出してもらえる場所もないんです。だから、最初は安心していても、色々答えているうちにどうしても警戒してしまうんです。」とハリッド君は私を励ますように言った。

> 私も、このことは衝撃だった。人々の本当の意識を知ることが、如何に難しいか、身につまされた。

> 町には、自動車を洗うことで、少しでもお小遣いを得ようとする子供達がたくさんいる。学校に行けない子供もまだ3割近くいると聞いた。

> 三日ほど前から急速に暖かくなったが、例年暖かくなると、反政府勢力の攻撃も増えてくる。おとといからは、国連など国連組織を狙ったテロの警報も出され、それがニュースで町に流れ、緊張感が走った。

> この国のためにできることが、私に何かあるのだろうか。平和構築という美名を掲げて私が行っている調査が、少しでも誰かにとって役にたつことなど、あるのだろうか。

> そんな疑問を持ちながら、それでも、応援してくれる人もいるのだからと自分を励ましつつ、明日カブールを発つ。そして、5月中旬、必ず戻ってこようと思っている。 

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 ※ 「草木花便り」の中での東大作の航跡
「2004年7月19日 曇天に咲く孤高のひまわり(「夢の誠文堂 店主より)」 
「2004年8月27日 オークの樹の下で 東大作 カナダからの便り@」 「10月1日 A<誤算>」
「2005年1月1日B<私と息子>」「2月6日C<出会い>」「3月6日D<壁>」「5月13日E<年齢>」「7月26日F<国連にて(1)粘り>」「G<国連にて(2)テーマ>」
「2006年2月6日H<カナダと格差>」「3月3日I<結果とオリンピック>」「10月6日J<カナダと新渡戸稲造>」
10月30日K<新しい出会い>2007年4月27日L<コースワーク終了
「2007年8月23日M<奇遇と三年>」  ◇「2008年1月5日N<クライマーズ・ハイ>」 

                      2008年2月23日