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2014年04月29日

●ポタミソと呼ばれた子

ナズナ/北半球の路傍、野原、屋根の上にまで広く生える生命力あふれる草。別名ペンペン草。ペンペン草という名は、ハート型の果実の形が三味線のばちに似ている。その擬音からペンペン草という名前がついた。ビンボウ草(貧乏草)という別名もある。種子がどこにでも飛んでいき、どこにでも生えるからだろう。ナズナの語源は諸説ある。愛すべき菜、というところから「撫菜(なでな)」から由来するという説、どこにでもある馴染みのある草なので「馴染む菜」から転化したとの説もある。
春の七草の一つでもある。花が咲く前の地面に、はりついているような時期にかゆの中に若葉を入れて「七草がゆ」として食する。薬草としても広く使われてきた。
ナズナの花言葉は「すべてを捧げる」

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▼花壇を淡いブルーに染めたネモフイラの群生にカメラを近づけていた時、画面にハート型の実をつけた野草が入ってきた。「なずな」、ペンペン草ともいうが、この時の登場はまさに「撫菜」という名がふさわしく愛らしい。その繊細な茎が遠景でかすむネモフイラのブルーにうまく生えていた。思わずシャッターを切った。そのか細い茎の中を春の水が天井の白い花に向かって駆け上る様がみえるような瑞々しい姿だった。
▼撫菜をみて、すぐに思い出すのは鈴子という名の女の子だ。郷里ですごした中学校時代の同級生だ。乾いたナズナを耳元に寄せて振って見せ、小さな果実が触れ合ってカラカラと音をたてるのをこぼれる様な笑顔で楽しんだ。真っ黒い髪の毛と、強い光りを放つ大きな瞳、白い歯・・・愛くるしい容姿だった。ただ、学習能力が低く、特殊学級と一般クラスを行ったりきたりしていた。少し吃音のくせもあった。当然、田舎の学校には必ずいる悪ガキたちの標的になりよくからかわれた。しかし、鈴子はちっとも悪びれることなく、愛くるしい笑顔で言葉の暴力をかわしていた。気が小さかった自分は、そんな鈴子の身のこなしを密かに尊敬していた。
▼社会の授業のことだった。世界の四大文明を前の席から順番に答えるように、と教師が指示した。前から「エジプト」「インダス」「中国」・・・・・そして鈴子に順番が回ってきた。隣の席にいた自分は小さな声で「メ・ソ・ポ・タ・ミ・ア]と囁いた。鈴子はうなずいて、大きな声で答えた。「ポ・タ・ミ・ソ」・・・・・皆が一斉に笑った。最初は唖然として戸惑っていた鈴子もやがて一緒になって笑った。そしてその横で一人だけ気まずく落ち込んでいく自分がいた。
▼その授業から、鈴子の綽名は「ポタミソ」となった。皆が「ポタミソ、ポタミソ」とはやし立てて、鈴子の周りを通り過ぎていった。その都度、「やめてよ」と笑顔で反応して鈴子は皆を追いかける動作をみせた。それを見ているうちに、本当は自分が「ポタミソ」と間違って教えたのではないか、とも思えるようになり「ポタミソ」と聞くと自分が責められているようにも感じるようになっていた。
▼ある朝早く、週番の仕事のため、教室の窓を開けていると、鈴子が近づいてきた。そして、自分に向かってゆっくり「ポ・タ・ミ・ソ」と言って笑いながら駆けていった。鈴子の真意はわからない。しかし、その時はそれが同士の合言葉のようにも聞こえた。
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▼あれから長い時間が過ぎた。撫菜は東京のコンクリートの隙間にも逞しく生え続けている。
耳元で振るとカラカラと音を立て乾いたハート型の果実が風に舞って飛んでいく。かつてその楽しさを教えてくれた鈴子は、どのようにこの長い歳月を生き抜いているのだろうか

●ハコベ


ハコベ 別名ミドリハコベ/日本最初の本草書である「本草和名」(918年)に登場している波久倍良(はくべら)がなまったものではと考えられるが、語源は不明。花の直径は6?7ミリ、花弁が基部近くまで2裂するので10弁のように見えるが実は5弁。花期は3?9月。日本全土に見られ、春の七草の一つとして七草がゆに入れたり、小鳥のえさとしてもおなじみ。


2014年04月28日

●小花が集まり・・・


コデマリ(小手毬)/バラ科シモツケ属。中国大陸中部原産の落葉低木。日本への渡来は古く、江戸時代以前にはスズカケ(鈴懸)と呼んだ。コデマリの名前は江戸時代初期につけられた。花は白色で、7?10ミリの五弁の小花が多数集まってほぼ球形の花序となり、枝上に連続して並ぶ。花言葉は努力する。

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2014年04月27日

●連休が始まった

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●赤・白・黄色のリボン


紅花常磐万作(べにばなときわまんさく)  マンサク科ロロペタルム属
中国原産の常緑小高木トキワマンサクの変種。3月の中頃から5月にかけて咲く。花弁は4枚、雄しべも4本あるが、花が密集していてわかりにくい。花言葉は、私から愛したい

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▼満開の桜の中に、それに負けじと紅色のマンサクの花が密集して咲いている。やがて、サクラに代わり淡いピンクのハナミズキが咲き誇るまでのつなぎのわずかな期間、人はこの鮮やかな紅色に目を向ける。

▼マンサク=満作、万作 の由来は春に他の花に先駆けて”まず咲く花”ということから生まれ、だんだん”まんさく”になっていったというのが通説のようだ。満作、万作は、そのリボンのような小花が密集していることからきたのだろうか。

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▼「まず咲く花」 確かに春の初め、枯れ枝の中から生まれ出る黄色いリボンの花には、来たるべき春爛漫の開幕の知らせを感じる。その黄色が枯れ木の中ではっとする生命の躍動感を醸し出してくれる。

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▼桜の満開と共に現れ、ハナミズキの花が「乱舞する森につなく、この紅色のマンサクは、おそらく次にくる新緑の季節の到来を知らせるリボンなのだろう。

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▲そうして、歩いていると、今度は新緑の中に、清楚に揺れる白いリボンを見つけた。これもマンサクの花の一種にちがいない。だとしたら、この新緑の中の白マンサクは、何を告げているのだろう。

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新緑の後にくる慈雨の季節を経て、たくましく成長した草木が熱い太陽を向かい入れその一生を燃焼し尽くす青春期の到来を早くも知らせているのだろうか。そんなとりとめのないことを考えながら、公園を歩いていると時間はあっという間に過ぎてしまう。
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2014年04月26日

●カントウタンポポの原っぱ


カントウタンポポ/キク科キク科タラクサクム属 属名Taraxacumは、ギリシャ語の「タラキス(不安)」と「アケオマイ(治す)」を組み合わせたもの。俳諧では「たんぽ」「鼓草(つづみぐさ)」「藤菜(ふじな)」の名とともに春の季語。

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▼公園の一角のあの原っぱに咲くのはカントウタンポポの群生に違いない・・・・と決めている。今年も黄色い顔をあちこちで見せてくれた。
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▼総苞(そうほう。緑色の萼のように見える部分)が反り返りがあるのが外来種で、反り返りがないのが在来種。
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▼よって、この原っぱのタンポポは、めずらしいカントウタンポポ。今年もピンと咲いて、誇り高い。
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2014年04月25日

●ハナミズキ満開


ハナミズキ (花水木)/ 別名アメリカヤマボウシ。高さ4?5mになる落葉小高木。枝は横に広がり短く分枝し階段状の樹形となる。原産地は北米東部、メキシコ北東部。明治45年に尾崎行雄東京市長がアメリカに桜を寄贈した謝礼として日本に送られた。木の皮を煎じた汁が犬のノミ退治に効があるといわれドッグ・ウッドとも呼ばれている。果実はやや苦味があり果実酒にいい。
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▼米国・オバマ大統領来日の日本は、春から新緑の季節へ、列島が瑞瑞しく輝く季節だ。東京・日比谷公園のハナミズキの花も満開だ。上の写真、手前のチューリップを撮りたかったのでも、晴れやかなお嬢さんたちをねらったのでもない。その後ろの白い二本の樹、花水木、これを撮りにきた。正確にいうと右奥の花水木である。

▼明治45年(1912年)、アメリカ大統領夫人の要望を受けて、当時の尾崎行雄東京市長は桜の苗木をプレゼントした。今、首都ワシントンD.C.ポトマック公園の春、はなやかに咲きほこる桜並木はこの贈り物から始まった。それから3年後の大正4年(1915年)、アメリカから桜の返礼として農務省のスイングル博士が白い花水木の苗40本を持ち来日、その2年後さらにピンクの苗木12本が贈られた。
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▼その花水木の原木が日比谷公園にあると聞いた。探し当てたのがこの細い樹である。樹の横に札があった。どうやらこの樹の本当の原木は都立園芸高校にあるらしい。最初、確かに花水木は日比谷公園を初め都内の公園屋植物園に植えられたが、太平洋戦争を境に「敵国の贈り物」として所在が不明になった。戦後、中野区の峰与志彦氏が独自に原木探しをし、東京都立園芸高等学校(世田谷区)に2本、農水省果樹試験場・興津支場(清水市)に1本、東京大学理学部付属(小石川)植物園(文京区)に1本、原木の存在が確認された。現在、日比谷公園にあるのは、原木の子だとこの木札で知った。
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▼花水木が渡来した1915年、世界は第一次世界大戦に突入していた。そして、明治以来極めて良好であった日米関係に軋みが見え始めていた時期でもあった。
▼最初の50年間、アメリカは日本の教師であり日本は従順な生徒であった。対中政策でも日本はアメリカの門戸開放政策に従い行動を共にした。しかし、日露戦争後、日本が中国の権益拡大を始めた頃から、両国の関係は悪化の一途を辿った。

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▼日本の権益拡大の起点となったのがこの日比谷公園である。   (以下、臼井吉見の「安曇野を歩く」より引用・・・・)
『 日露講和交渉は明治38(1905)年8月9日から、アメリカのポーツマスで開かれた。交渉は賠償金の問題などでもめたが、日本側はそれを絶対条件と考えていなかったため、樺太(からふと)の南半分の割譲、賠償金なしの線でまとまった。9月5日、日露講和条約(ポーツマス条約)が調印された。中身は樺太南半分の割譲のほか、▽ロシアは日本が韓国を指導、保護、監理する権利を承認する▽ロシアは長春と旅順間の「南満州鉄道」と、遼東半島の租借(そしゃく)権を日本に譲る―などだった。
 大きな成果を得たのだが、目に見える形では樺太の南半分の獲得のみで、賠償金も取れなかったため、国民の多くは「どういうことだ」と、政府に対して激しい怒りを抱いた。大国ロシアを打ち破り、ついに世界の「一等国」の仲間入りを果たしたという奢(おご)りと、現実には重税、物価高騰による生活苦の不満。その鬱積(うっせき)したエネルギーが爆発する。
 講和反対国民大会が9月5日、東京・日比谷公園で計画されるものの、政府はそれを禁じ、公園を封鎖する。押し寄せた数万の群衆は、バリケードを突破して園内になだれ込み、警官隊ともみ合い、政府の御用新聞「国民新聞」の社屋を取り囲む。警官は抜刀、負傷者が多数出て、軍隊まで出動するという大騒動になった。
 夕闇迫るなか、人々は暴徒と化し、警察署、派出所、交番を次々に襲撃、破壊し、焼き払う。
 木下尚江は9月6日夜、公園付近で「軍隊の影の動いて来るのを見ると『陸軍万歳』と絶叫する」民衆を見ている。
 9月10日、平民社の週刊「直言」が「事の真因は如何(いかに)」と題する文章を載せている。「日本人民の心中、実に多大の不平痛恨ありて存す、(中略)彼等(かれら)は種々なる欺瞞(ぎまん)と圧迫とを浴びせらるゝ時、而(しか)して彼等が絶えず飢寒と不安とに襲わるる時、彼等の心中、実に多大の不平痛恨を生ぜざるを得ず、……」
 この「不平痛恨」を募らせてしまった要因の1つに新聞報道がある。戦勝を煽(あお)り、ポーツマス条約が結ばれると、肯定したのは「国民新聞」「中央新聞」のみ、東の「万朝報(よろずちょうほう)」、西の「大阪朝日新聞」の2大紙をはじめ、「時事新報」「毎日新聞」など一般紙は条約破棄を要求した。
 日露戦史に詳しい医師・降旗良知さん(82)=松本市神田1=は、日比谷焼き打ち事件について「米国のおかげで、辛(かろ)うじて勝ったということが国民にはわからなかった。新聞がその事実をきちんと報道していない」と考察する。
 日露戦争の勝利感が国民の意識を、他民族の侵害など全く考えもせずに領土拡大に向けさせる。朝鮮半島のみならず、それまでかかわりのなかった満州(現在の中国東北部)に足を踏み入れ、この権益を守るため軍隊派遣となる。
 作家の半藤一利さんは著書『昭和史』で「日本本土を守るための資源供給地としての満州が注目されたのです。しかし実際、満州には鉄や石炭はたくさんあったのですが石油はありませんでした。(中略)日本が強国であるためには、満州は必要不可欠な土地になったわけです」と書いている。
 満州経営と並行して韓国への圧迫を強め、明治43(1910)年、併合に至る。果てしない自己肥大化。戦争は負けた国より勝った国のほうを、より狂わせると言われるが、日露戦争後の日本がまさにそうだった。「アジアの覇者」になるべく野望を膨らませ、それが米国との新たな摩擦を生じさせてゆくのである.』
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▼歪んだナショナリズムの拠点となった日比谷公園に,1915年、アメリカの花、花水木が植えられた。この微妙な時期に、アメリカに桜を贈った尾崎東京市長、その返礼をしたアメリカ、それぞれがどのような思惑で植樹式典に向かったのか?
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▼それからおよそ100年、第一次世界大戦から100年の今年、ハナミズキ満開の季節に来日したオバマ大統領、クールジャパンのおもてなしを存分に受ける中でのタフな通商交渉、日米関係はどこまで成熟したのか、まもなく大統領は日本を飛び立ち韓国へ向かう。

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2014年04月20日

●競演

里桜と若葉

桜と花蘇芳
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桜と菜の花
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桜と椿

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花に遊ぶ
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2014年04月13日

●春爛漫の山

あいにくの曇天だったが、それを埋め尽くす枝垂れ桜の花森に圧倒された。
京都・金閣寺近く、衣笠山の一角の私有地、原谷苑を訪ねた。

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戦後、洛北の不毛の地を開拓した村岩家の人々が、山に数百本の桜や紅葉を植えたのが始まりだそうだ。当初は、親類や友人たちを集めて身内だけの花見をしていたが、人伝に評判を呼び、この季節だけ一般公開することになった。

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花森ばかりに興味を奪われ、人波を避けて撮影したのを後悔している。とにかく、すごい人手だった。交通の便もあまり良くなく、私有地なので自家用車は入れない。地下鉄の烏丸線の北大路でバスに乗り換え、「わら天神前」で下車、歩いて「立命館大学前」のバス停まで歩き「原谷」行きのバスに乗り「原谷農協前」で下車、というコースで、この春爛漫の山にたどり着いた。

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枝垂れ桜を主役とするめくるめく春爛漫を満喫した目が、最後にふと惹かれたのは雪柳とボケの花の小さな競演 

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2014年04月12日

●見えないもの


カイドウ(海棠)/バラ科リンゴ属。落葉低木。カイドウの仲間(リンゴ属)は、北半球の温帯におよそ30種類ある。この中から食用として改良されたのがリンゴ、観賞用として育てられたのがカイドウである。カイドウの中にも果実を食するミカイドウ、観賞用がハナカイドウである。いずれも中国産で、徳川初期に日本に渡来した。昔、唐の玄宗皇帝が楊貴妃のほろ酔い姿を見て「妃はまだ酔うているか」と問うたところ、ほんのり紅をさした顔を嫣然とほころばせて「海棠の眠りいまださめず」と答えたという。その美しい薄桃色の花がほのかに酒気をおびた絶世の美女楊貴妃の転寝の顔にたとえられた。ここから中国では海棠を眠花ともいう。花言葉は、温和 

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見えないもの  金子みすず 

ねんねした間になにがある。
うすももいろの花びらが、
お床の上に降り積もり、
お目々さませば、ふと消える。

誰もみたものないけれど、
誰がうそだといいましょう。

まばたきするまに何がある。

白い天馬が羽のべて、
白羽の矢よりもまだ早く、
青いお空すぎてゆく。

誰もみたものないけれど、誰がうそだといえましょう。

▼1903年の4月11日、童話詩人の金子みすずが生まれた。昨日はちょうど生誕111年になる。彼女が26年の生涯を過ごした山口県長門市に、10年前、生誕百年を記念して「金子みすず記念館」がオープンし、彼女の育った金子文英堂という書店も復元されていく。同じ山口県でしかも書店の息子である自分は、勝手に金子みすずを身近な存在に引き寄せてきた。
▼日本海の小さな漁師町で一生を過ごしながら、彼女からでる言葉の連珠は、壮大な宇宙の香りにあふれている。目の前には見えないものに果てしない想いをめぐらす、みすずの瑞々しい視線を浴びるたびに、忘れかけていたものがまた戻ってくるような気がする。

大漁   金子みすず    

朝焼け小焼けだ 大漁だ
大羽鰮(いわし)の大漁だ。

浜は祭りのようだけど
海のなかでは何万の
鰮(いわし)のとむらいするだろう。

▼「大漁」という詩はみすずが21歳(大正13年)の時に作ったものだ。浜辺で大漁の宴に人々が酔っている渦中、大勢の鰮を失った海の底の悲しさに視線を当てるその想像力。競争社会を勝ち抜いたものが狂喜乱舞する中で、目の前に見えない、敗れたものに思いを馳せるみすずの瑞々しさには、想像力を失った現代社会への強烈なメッセージがほとばしる。勝利することは一方で無数の敗者を生み出すこのにつながる。この勝者と敗者の連鎖の中でイノチが継続していくという、生命の宿命までをも一瞬の描写で切り取る眼差しは圧巻である。
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カイドウの花を画面に並べて、久しぶりに 、金子みすゞのなかにいる。

蜂と神様   金子みすず
蜂はお花のなかに、
お花はお庭のなかに、
お庭は土塀のなかに、
土塀は町のなかに、
町は日本のなかに、
日本は世界のなかに、
世界は神さまのなかに。

そうして、そうして、神さまは、
小さな蜂のなかに。

2014年04月11日

●ヒマラヤの緋桜

3月28日、新宿御苑、高い木を見上げて、満開の「ヒマラヤ緋桜」を確認。なんとか今年も間に合った。

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「ヒマラヤ緋桜」は中国南部からネパールにかけて分布している。花は紅色で中輪一重、早春に咲く。カンヒザクラに似て紅色で閉じた花を持つ。新宿御苑の緋桜は花付きもよく国内では貴重な一本である。

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高く伸びる樹の頂に咲き誇る緋桜の花群れ。海の底から眺める魚の群れのように、キラキラ光り、風にそよいでいる。

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●陽光

ヨウコウ(陽光)カンヒザクラ群(寒緋桜)/亜寒帯に近い暖地に分布する桜で、日本では琉球諸島に野生化している他、東京以南で多く栽培されている。花弁は5枚で濃紅紫色を中心に、淡紅紫色から白色までさまざま。開花期は沖縄地方で1月下旬?2月上旬。関東地方で3月中旬ごろ。九州地方では旧暦の元旦に咲く桜として、ガンジツザクラ(元日桜)の別名もある。他にヒカンザクラ(緋寒桜)、サツマヒザクラ(薩摩緋桜)とも呼ばれている

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ソメイヨシノに先駆けて、陽光が咲き誇っている。

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陽光は「アマギヨシノ(天城吉野)」と「ヒカンザクラ(寒緋桜)」を交配して生まれ出た。作ったのは愛媛県の桜愛好家の高岡正明氏。高岡氏について検索してみた。戦時中、教師をしていた高岡正明氏(故人)は、戦場に送った教え子の死を追悼し、この新種「陽光」を開発し、日本はじめ世界各地に無償で「陽光」を贈り続けたという。

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 ソメイヨシノもそうだが、桜がそのの遺伝子を飛散させて繁栄しつづけるために貢献しているのは、鳥でも虫でもない。そのほとんどが人々の手による植樹で広がっている。
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 桜は、その儚い美しさで人々を惹き付ける。人々はその美に様々な思いを投影させる。そして苗木を植え続ける。

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追悼、追憶と共に託す儚い美、その暗示的な美しさを人々の心に映し出すのは実に高等な桜の戦略ではなかろうか。そのことによって桜は子孫を増やし生き続ける。桜と人は、実に巧みな共生関係を築きつつあるのだろう。
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高岡正明氏の遺志は息子の照海氏に受け継がれ、これまでに5カ国におよそ5万本が植樹されたという。

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●花森のラジオ体操


▼宵のうち、そっと家を抜け出し、公園に。陽が桜の花びらに差し込む時刻をじっと待つ。至福の時間、一条の光が差し込み、幽玄の花森が浮かびあがる。
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▼いつものように、テーブルにカセットラジオが設置されたのはラジオ体操が始まる3分前、ごく自然にごく当たり前に、桜の木の下で、ラジオ体操が始まる。

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▼「からだのあちこちが痛いのよ。」「あんた、ほっといちゃだめよ。すぐ、病院行きなよ。」「わかった。」「じゃあ、また、あした。」 カセットラジオを自転車に乗せ、老人はゆっくりペダルを漕ぎ出す。そうして、春の公園の一日が静かに動き出す。

2014年04月06日

●粋な遊び


▼人気のない冬の公園で深い年輪の亀裂を晒していた桜の老樹が、一世一代の気力を振り絞る時が来た。人恋しい孤樹の思いが一気に吹き出したその花森に、今年も大勢の人が引き寄せられて宴を開く。

▼冬の孤樹を知る者は、その懸命に咲かせた花雲になぜか哀しい切実さを感じる。それは盆や正月に孫を連れて帰郷する子を待ちわびる弧老の姿と重ねあう。
▼今年の早春は、暖かくなったと思えば次の日は真冬のような冷気に襲われた。そんな気まぐれな天候の繰り返しの中で、弧樹はいらいらじらされた。そして、今週、ここぞとばかりに一気に咲き、あっという間に満開にしてみせた。

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▼年に一度、弧樹を振り向く人々が、青いビニールを敷き詰めて、思い思いの宴会をはじめる。故郷に帰ってきた子供らが、待ちわびていた親のことなどお構いなしに、勝手気ままに実家で騒いで、あっという間に去っていく、そんな風景と、なぜか今年は重ね合わせて見たくなる。あまりにもあわただしく騒然とした宴の中、敷き詰められたビニールに反射する光に青く照らされて、それでもうれしそうに花雲をいっぱいに広げている弧樹の遠景が、なんだか切なく揺らいでいる。

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▼ 騒然とした人混みの中からオレンジ色のボールが花雲の中に投げ込まれるのを見た。
それが夜空に打ち上げられる花火のように華やかに見え思わずシャッターを切った。
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ボールが下界に消えると、黄色い喚声がわき起こる。しばらくして、再び、ボールは天空の花雲の中に投げ入れられた。
その遠景に少しだけ近づいた。
望遠レンズの焦点を合わせて、 ようやくそのボールの訳を知った。
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▼どこまでも広がる花雲の中に向かって、少年は思いっきりボールを投げいれる。天に届いた熱球は、満開の花園を大きく揺さぶる。
▼無数の花弁がざわめきながら、地平に舞い落ちる。

▼その時私は初めて、“遊び”の仕掛け知った。球を投げた少年は二人の少女とともに掌の広げて、天から降り注ぐ花弁の一枚一枚を懸命に掬い取る。その至福の表情が陽光に照らされて浮かびあがった。なんと愛おしい風景だろう。しばらく時間を忘れて、この“粋な遊び”に目を奪われた。

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▼腕を大きく広げて一世一代の花を咲かせる公園一の老木に向かって投げられる黄色い球。孫達にくすぐられた弧樹はお礼にたくさんの花弁を投げ返す。

弧樹と孫達の心地よい交換が何度も何度も飽きることなく繰り返される。

そののどかなキャッチボールのリズムに乗せられて、こちらもしだいに春の中に溶けていく・・・・・。


おぼえているかいあの春を・・・サトウハチロー
さざなみが
小川の岸まで ぼかしてた
おぼえているかい あの春を
   ちいさい蟹が 二匹でね
   はさみで別れを つげていた
   おぼえているかい あの春を・・・・・
ゆびきりの
小指がさびしさ ぼかしてた
おぼえているかい あの春を
   ちいさい顔の 蛙がね
   下からぼくらを 見上げてた
   おぼえているかい あの春を・・・・・

たんぽぽの
わた毛がひぐれを ぼかしてた
おぼえているかい あの春を
   ちいさい風が 泪をね
   なんどもくすぐり 吹いていた
   おぼえているかい あの春を・・・・・

●染井吉野の戦略


ソメイヨシノ(染井吉野)/バラ科サクラ類

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▼桜といえばソメイヨシノ、今年も見事に開花した。練馬・光が丘公園、かつての飛行場の滑走路に沿って植えられた一直線の桜の大木も満開である。

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▼ソメイヨシノは日本各地のみならず、ワシントンポトマック河畔にまで咲き誇る。桜前線は、このソメイヨシノの開花を追った指標である。しかし、ソメイヨシノは日本の桜の中では新参者で、桜愛好家達の中には、「日本の桜は古来からある里桜や山桜・・・・ソメイヨシノは亜流だ。」などという人もいる。
▼ソメイヨシノは、江戸時代の最末期(明治時代の初期という説もある)現在の東京都豊島区駒込と巣鴨の境界線にある染井墓地(今も染井霊園として存在する)近くの植木師・河島権兵衛が「吉野山から採ってきた吉野桜」と言って売り出した。花が美しいうえに生育が大変早いので、たちまち世間に広まった。(豊島区駒込6丁目の西福寺には「染井吉野の里」という碑が建っている)
▼しばらくして、この桜は吉野桜などのヒガンザクラ系のものとは違う新種だ、と気づく人々がでてきて、20世紀最初の年19001年に、東京帝国大学の松村任三教授によって「ソメイヨシノ」と命名された。
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▼新種「ソメイヨシノ」の素性は謎であった。俄かに興味を持った植物学者たちはサクラの履歴を調べようとしたが、売り出しもとの植木師は亡くなってていた。当時のうわさでは伊豆の大島が原産地で、染井の植木師が持ちえり、吉野桜として売りさばいた、ということになっていたが、植物学者たちが大島で調査してみても野生のものはついに見つからなかった。

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▼1916年、アメリカ人植物学者、E・H・Wilsonが「ソメイヨシノはその形態的特徴からエドヒガンとオオシマザクラとの雑種であるように思われる」という意見を発表した。
▼形態学から示されてこの推測をもとに、自ら交配実験を繰り返し、エドヒガンとオオシマザクラからソメイヨシノをつくりだすことに成功したのが30歳になったばかりの植物学者・竹中要(国立遺伝研究所)であった。1962年のことである。エドヒガンとオオシマザクラは予想外に簡単に交配する。この実験結果に基づき、エドヒガン分布とオオシマザクラの分布が重なる地域で、ソメイヨシノが野生してもおかしくないとして、その場所を探した。そして、伊豆半島南部がソメイヨシノのルーツではないか、という結論を導き出した。]

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▼ここから拙い妄想である。竹中要氏によると、ソメイヨシノは結実性が非常に低い。天然の植物でこのように結実性の低いものは、地下茎などで繁殖するものでない限りは、自然に淘汰されて絶滅してしまう。エドヒガンとオオシマザクラが同居する森の中、ある時、忽然とソメイヨシノの木が一本、天に伸びることもあったに違いない。しかし、実をつついた鳥が種子を運んでくれることも少ないこの木は決して森に広がることはなかった。

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▼江戸時代の終わりのある日、この森に分け入ったのが、江戸の染井の植木師だった。そのハラハラ散る花々に魅せられた植木師は、枝を持ち帰り、接木し、売り出した。ソメイヨシノを一気に日本各地に広めたのは、人々の手による植樹作業である。人々を植樹にかりたてたのは、古来から熟成されてきた桜の美に対する想像力である。こうした人々の手がなければ、野生の繁殖力のないソメイヨシノは何十年か、いや百年に一度、忽然と、森に姿を見せては消え去ることしかできなかったのではないか。そう考えると、ソメイヨシノは人々の美への執着から育まれた。いや、これは、桜に寄せる情を巧みに利用したソメイヨシノの戦略ではないか・・・。
                         ※参考:日本人とサクラ(講談社) 桜(中央公論社)
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2014年04月05日

●原爆ドーム 対岸の桜



▼桜満開の広島の朝、久しぶりに平和公園でラジオ体操をして、ドームに向かって歩いた。

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▼被爆から来年で70年になる。被爆直前、この平和公園一帯は西日本屈指の歓楽街だった。銭湯、旅館、映画館、遊郭・・・それらは一瞬にして崩れ落ちた。瓦礫は撤去されることなくその場に遺され、その上に盛り土をして公園となった。粉々になった無数の人骨は今もこの下に白い層となって埋まっている。

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▼被爆直後は「70年間。草木も生えない」と言われた。その広島がいち早く平和宣言をして、残留放射能の不安と「向き合いながらも、着実に復興していった様は奇跡としか言いようがない。

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▼ 原子爆弾リトルボーイが炸裂した直下は、島病院という個人病院だった。そのすぐ近くに産業奨励館があった。軍都のイメージを脱して、文化都市広島として世界に売り出そうという気概の元に建てられた洋館だった。その隣にあった屋敷の長男として生まれ育った田邊氏と20年近いつきあいを続けている。疎開して奇跡的に助かったが、父母と弟は溶けて消えた。家族の眠る屋敷のあった場所は世界遺産の柵の中にあり入ることも出来ない。
「早くしないとみんないなくなってしまう。」せき立てられるようにして、田邊さんは少年時代の思い出が凝縮する、町を復元しようと心血を注いでいる。その姿を横で見ながら、なんとかその仕事を助け結実させることが自分に課せられた大きな宿題だと、肩にのしかかっている。

▼原爆ドームの対岸には2本のソメイヨシノの木がある。満開の桜越しに朝陽を受けるドームを撮影したいと思いカメラを向けた。枝に雀がとまった。「70年間草木もはえない。」といわれた70年後の爆心地の春である。

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桜の樹の下には屍体が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。
何故って、桜の花があんなにも
見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。
俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。
しかしいま、やっとわかるときが来た。
桜の樹の下には屍体が埋まっている。
これは信じていいことだ。・・・・・
        (梶井基次郎)