東大作 アフガンからの便り
2008年5月20日〜7月1日
一連の写真は、東氏撮影
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今日は、6週間にわたるカブールでの調査の最後の日である。1時間後には、カブール空港に行って日本に帰らなければならない。
詳しい調査の報告は、来年春の刊行が正式に決まった「平和構築」という本の中で行いたいと思うが、今はとにかく、この6週間を振り返ってカブールからの報告としたい。
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> 5月20日にカブールに入り、まずは、前回2月にお会いし、協力を約束してくれた、国連アフガンミッションの人たち、UNDPやUNHCRのトップなどに会い、今後の調査について打ち合わせをする。 >
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大臣や地方での重要人物、県知事や市長、軍備解体に応じるかどうか迷っている司令官、地方開発を担当している局長、県議会の議員やそのトップなど、キーとなる指導者へのインタビューの交渉についてまず話し合う。中央政府の指導者(大臣や副大臣など)は、2月に築いた協力関係をもとに自ら行い、地方での調査については、国連組織が全面的に協力してくれることになった。
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更に、私の調査が「どうすれば、紛争後の平和構築の過程で、政府が人々から信頼や正統性を得ることができるのか」をテーマにしているとすれば、当然、一般住民、市民の意識を把握する努力をする必要がある。 >
> アフガニスタンのように極端に治安が悪化している場所で、一般の住民に会って話を聞くことが実は一番の試練であり、課題でもある。しかしそれが、実際の政府の信頼を知る上でも、最も重要なことであり、また私自身が 状況を少しでも把握する上でも大事なことだと確信していた。
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そのことをある国連組織の地方事務所のトップにぶつけたところ、思いがけず最大限の協力をしてくれることを約束してくれた。 >
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更にUNDPや、アフガニスタンの復興開発省のトップ(大臣)もインタビューの後、全面的な協力を約束してくれた。
> こうした協力があって、最終的に南部のカンダハール州、中央部で比較的治安のよい、キャピサ州、そして中央部で現在治安の悪化が続き、軍備解体も進んでいないワーダック州で調査を行う決断をした。
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その意識調査の内容も、国連の現地スタッフと国際スタッフと三人で5時間以上議論して、内容を詰め、それを更に二つの現地語に訳した。
> もちろん、南部のカンダハールなどは戦闘地域であり、国連の協力なしには一切単独行動はできない。国連の各機関のおかげで、飛行機から飛行場から事務所やホテルへの移動、その後、治安が確保されている市内のセキュリテイエリアでの調査を行うことになった。
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カンダハールについた当日から、インタビューがぶっつづけにあり、カルザイの弟で、カンダハールで最も権力を持つと言われる県議会のトップにも会う。自らの政府の問題よりもパキスタンがタリバンを取り締まらないことに問題があると力説していたことが印象的であった。
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> 翌日は、カンダハール全州から集まってくれた50人の村人への意識調査だった。 > >
郡(District)によっては、国連関係者はもちろん、政府関係者も全く入れないほど治安が悪化している所からも、10人づつくらい、人が集まってくれていることにびっくりした。 > >
このイベントは、UNDPの応援のもと、地方復興開発省のカンダハール事務所が全て取り仕切ってくれた。私は50人の前で最初に挨拶をし、自分の企画を話し、アフガニスタンの平和のために少しでも役に立つ調査をするためには、本当の状況をしる必要がある。そのためにも、正直な答えをして欲しい。調査は名前も全て匿名であり、インタビューも一人一人に対して別個に行うという旨を話をする。またグループで写真を撮ることについても、許可をもらうことができた。
↓調査のために集まってくれたカンダハールの人々
> もちろん私一人で調査はできないので、地方開発省のカンダハール事務所の職員6人が手分けして、一人一人に調査項目を読み上げ、答えを聞いていってくれる。調査に先立って、私の方からどのように調査をして欲しいかも詳しく説明はしていたが、本当に一生懸命やってくれているアフガンスタッフの姿に感動しながら、私も4人の村人に対してインタビューを行った。
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状況の悪化は思った以上にひどく、郡によっては完全に学校が閉鎖されている所もあった。カンダハール市内でも、子供を学校に送ることができなくなっていた。
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仕事の悪化や、治安の悪化が政府に対する不信を生んでいる状況を直接人々から聞くことができるのは、何にも代え難い貴重な体験だった。
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ある学校の先生は、タリバンからの脅迫状を頻繁に受けていた。このまま学校での仕事を続け、コミュニテイ開発の仕事に参加するなら、報復を受けるという内容の脅迫状であった。 > >
これは彼に限ったことではなく、政府機関や国際機関で働いているスタッフに、現在幅広く行われている。その現状を目の当たりにすることはショックだった。 > >
50人の村人への調査を集め、その後、地方開発省の若いスタッフ一人一人が、「素晴らしい調査だと思う。これからも何かあったら何でもやるので、言って欲しい」と言ってくれることに、感激していた。そして彼らの日々の努力が無にならない、この国の解決策を願わずにはいられなかった。 > >
市内も状況は厳しく、国連職員も宿泊施設と事務所以外は行くことができない。私もその宿泊施設に泊まったが、食堂も暗く、気が滅入った。
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翌日、少し朝早く起きて、宿泊施設の庭に出ると、ひまわりが咲いていた。なんとなく、誠文堂の店主に四年前に書いてもらった手紙を思い出し、思わずシャッターを切った。
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四年もたって、私はここで今何をしているのだろう、という感慨に浸る暇もなく、また朝から個別インタビューが始まった。結局その日は8人の指導者へのインタビューを行い、翌日朝、更に軍備解体の担当者に会って話を聞いて、その日の午後、カンダハールを後にした。
> 比較的みな、政府に対する批判をはっきり言ってくれることは驚きだった。
> そしてカンダハール州の女性問題担当大臣が、とても聡明で、全ての質問に、極めて的確に、しかも核心に触れる形で答えてくれることが、とても印象的だった。
> この南部で女性が政府で働くということが、如何に危険なことか。生命を賭けて女性の権利(それは家庭内暴力から守ったりする意味で非常に具体的なものである)のために努力している彼女の勇気に頭があがらなかった。写真を撮っても本当にいいのかと聞くと、「もう色んなメデイアの取材に応じているから同じよ。気にしないで下さい」と笑った彼女の強さに打たれた。
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カンダハールでは車の中から色々な写真を撮った。カブールに比べて子供達がカメラを見ると走って寄ってきてくれる。外国人も珍しいのだろうか。笑顔を見せてくれた子供達の笑顔がまぶたから離れない。
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カンダハールからカブールに戻ってきて、その日から、翌週から始まるワーダック州の調査の打ち合わせと、合間をぬってカブールでのインタビューを行う。
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↓ ワーダック州への道
> ワーダック州では、ジャルリッツとマーダンシャーという二つの郡から、それぞれ50人から意識調査を行うことになっていた。それに二日。さらにあと二日は、地域で大きな力を持つ司令官(Commanders)5人へのインタビューに一日。州知事や郡の長、警察長官など、政府の重要人物へのインタビューに一日。全部で四日の視察だった。泊まりは禁じられている地域のため、毎朝7時に出て、夜6時頃帰ってくる強行軍だった。 >
> その調査を翌日に控えた土曜日、カンダハールの監獄が襲撃され、数百人とも千数百人とも言われる囚人が逃亡した。その多くはタリバンの兵士であり、上層部も多く含まれていると報道されている。 >
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カンダハールはその日から戒厳令に入った。私がカンダハールを去ったわずか二日後のことだった。襲撃が三日早かったら、私の調査など吹っ飛び(村人も一切集まれない)私もカンダハールで足止めだったかも知れない。
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そんな気持ちを抱きながらワーダック州での調査を行う。現地の人たちや国連のスタッフが完璧なコーデイネーションをしてくれて気持ちよく調査が進んでいく。 > >
ジャルリッツ郡は非常に危険な場所で、国連も入れないため、人々に安全な州センターに集まってもらう。そのための交通費とアフガンの文化である昼食をおごるお金だけを私が負担する。それは、カンダハールでもキャピサでもワーダックでも同じであった。 > >
その費用は個人で調査をする私にとっては苦しかったが、しかしお金で買えない協力をしてもらっている以上、やり遂げるしかないと思ってとにかく目標の達成を心がけた。 > >
なんといっても現地までの交通もその後の調査も、色んな国連機関や、現地のNGOなどがそれぞれ綿密にコーデイネーションをしてくれて、必要なスタッフを出し、私の調査に協力してくれている。私は自らの通訳を連れて行くだけでよかった。本当に協力してくれる各組織に頭があがらなかった。 > >
ワーダック州での調査が終わった翌日、アメリカ軍によるジャルリツ郡に対する空爆が始まった。その後、50台とも言われるアメリカ軍関係者の車が焼かれるという事件も、ワーダック州で起きた。その意味で、調査が少しでも遅れていたら、ワーダックでの調査はなかった。
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最後の州は比較的治安のよいキャピサ州での調査であった。同じような調査をこなしていく。比較的農業開発も進み、一面、グレープや小麦、さくらんぼ、など昔からの主要産業である農作物が見渡す限り続いている。
> こうした風景を見ると、息子の大誠に何度も読んで聞かせた「世界で一番美しい村」というアフガニスタンの農村を舞台にした絵本に書かれている「果物と自然の国」だったアフガニスタンの姿を彷彿させられる。
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本当に美しい国だったのだろうし、今だって美しい地域はたくさんある。30年前、ここは美しく、自然に恵まれた、比較的、宗教的にも寛容な国が営まれていた。当時バックパッカーとしてこの国を訪れた人が国連関係者や援助関係者にも多くいるが、みな口を揃えて美しい国だったことを話す。
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ソ連の侵攻から始まった内戦は、この国を破壊し、この国の政府に対する信頼を破壊した。それを復活、復興させるための努力を国際社会は7年前から始めた。 >
> そのアフガニスタンはこれからどうなるのだろう。状況は全く楽観を許さない。それでも、アフガニスタンを諦める訳にはいかない。 >
> キャピサでの最後の調査が終わった後、地元の国際機関の所長さんで、意識調査の段取りから、コミュニテイ開発の現場の視察まで全てコーデイネートしてくれた人と、抱き合って別れを惜しんだ。彼はそれほど英語は話せないけど、私の調査のために一生懸命、動いてくれていることは、私は肌で実感していた。その真剣なまなざしは、この国の人たちの真面目さと、几帳面さ、そして一生懸命さを象徴しているように見えた。
> だから見捨てることはできない。なんとかしなければいけない。ただ、状況は全く楽観を許さない。むしろ客観的に言えば悲観的な要素の方が多いかも知れない。 > >
それでも、最後にインタビューして、この調査をずっと助けてくれたUNDPの現地トップのアニタが言った「決して悲観的になりすぎてはいけない。進歩していること、うまくいっていることがあることにも目を向けなければいけない」という言葉に、なんとなくうなずいてしまった。励まされる気持ちだった。
↓カーン・エネルギー担当大臣
↓ジア農村復興開発省大臣
> 最終的に、カンダハール、キャピサ、ワーダックの3州から260の意識調査を集めることができた。一人一人へのインタビューを基に行ったものであり、その結果をとりあえず、国連ミッションなどお世話になった人たちにファイルにして渡す。みな「これはすごい参考になる。是非使わせて欲しい」と喜んでくれた。 > >
一方で、「とにかく早くリポートを送って欲しい。半年たったら状況は一変する。今でないとその価値がなくなってしまう」とUNDPのトップを含め、多くの国連関係者にいわれた。
↓アハディ財務大臣
> その上で、調査の簡単な結論について説明したある国連機関のトップからは、「カブール大学で特別なイベントを開いてあなたに調査の結果を発表して欲しい。是非またアフガンに来て欲しい」とまで言ってもらった。実現するかどうかは分からないが、評価してくれる人がいることは、本当にありがたいことだと思う。 >
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意識調査だけでなく、4人の大臣も含めた、100人を越える司令官や地方の主要人物、そして軍備解体プログラム担当官などへの詳細な調査にもとずくレポートを、なるだけ早く書きたい。それが今の私が、調査に無償で協力してくれたスタッフの人たちに対して唯一できることだと思う。
↓調査に協力してくれたスタッフ
> 今回の地方への視察は全てアフガン人スタッフが一緒に行動を共にしてくれて、私の調査を助けてくれた。その協力を思うと、なんとなく年甲斐もなく胸が熱くなったりする。そして、何ができるかは分からないけど、来てよかったと思う。
↓通訳をつとめてくれたワリド氏
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これから空港に向かう。お世話になった全ての人に感謝を送りつつ。そしてまたきっと、戻ってくるだろうと思いながら。 >
※<店主からのおわび>
カブールから、東君が送ってきてくれた報告をすぐに掲載できませんでした。このところ、私の古いPCの調子が悪いことと、ホームページ作成のソフトのトラブルも重なり、更新ができない状況でした。 今後、勉強を重ね、システムの向上をめざすことをお約束し、おわびとさせていただきます。
※東大作のテレビ・ジャーナリストとしての航跡はここをクリックすればでます。
※ 「草木花便り」の中での東大作の航跡
◇「2004年7月19日 曇天に咲く孤高のひまわり(「夢の誠文堂 店主より)」
◇「2004年8月27日 オークの樹の下で 東大作 カナダからの便り@」 ◇「10月1日 A<誤算>」
◇「2005年1月1日B<私と息子>」◇「2月6日C<出会い>」◇「3月6日D<壁>」◇「5月13日E<年齢>」◇「7月26日F<国連にて(1)粘り>」◇「G<国連にて(2)テーマ>」
◇「2006年2月6日H<カナダと格差>」◇「3月3日I<結果とオリンピック>」◇「10月6日J<カナダと新渡戸稲造>」◇「10月30日K<新しい出会い>」◇「2007年4月27日L<コースワーク終了>」
◇「2007年8月23日M<奇遇と三年>」 ◇「2008年1月5日N<クライマーズ・ハイ>」
◇「2008年2月23日O<カブールからの便り1>」
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