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2014年05月18日

●花言葉

杜若・燕子花(かきつばた)
 アヤメ科アヤメ属

 植物学者の牧野富三郎博士によれば、カキツバタとは「書き附け花」から転じたもの。「書き附け」とはこすりつけることで、この花の汁を布にこすりつけて染める昔の行事に由来する。アヤメ属共通の特徴は花被片は6個、外側の3個が大きい。裂片は平たく、花弁のように広がる。
カキツバタはアヤメの仲間ではもっとも水湿を好み、水辺に群生することが多い。かきつばた(紫)の花言葉は、幸運。

▼1年半ぶりに「旦那さん(アキラさん)はアスペルガー」を書き上げたばかりの漫画家・野波ツナさんにに会った。できあがった作品を前に爽快な表情の野波さんに燕子花の花に与えられた「幸運」という花言葉を贈りたい。野波さんたちと一緒に仕事できたことは私にとって「幸運」であった。

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▼花に違う属性を与える花言葉を考え出したのは誰だろう。その言葉を得てほっとし、果ては自分の運命が切り開かれるような気持ちになるときもある。
▼「旦那さんはアスペルガー」はアスペルガー症候群だと気付かないまま大人になってしまった夫との結婚生活を赤裸々に描き反響を呼んだ。今回はその4作目、一人暮らしを始めた夫を軸に最近の家族の姿が報告される。
▼アスペルガーなど発達障害に悩む人たちにとって、自分の病名が特定されることの意味は大きい。世間から変人やわがままななどと扱われ悩む日々が、病名が特定されることで大きな節目となり、解決への手ががりをつかむことができる・・・

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▼不可解な事柄の一つ一つに、言葉を与え、共有していくことで道を開く人間の気概はすばらしい、燕子花の咲く新緑の水辺で、この本をめくりながら、ふとそんなことを思った。

旦那(アキラ)さんはアスペルガー―4年目の自立!?旦那(アキラ)さんはアスペルガー―4年目の自立!?

2014年05月14日

●無名戦士の花

シラン(紫蘭)/ ラン科ラン属。本州中部地方以西の山地で日当たりのいい湿地などに自生し、朝鮮半島、台湾、中国の雲南、四川にも分布する。地中浅くに、平たい球形の茎(偽球茎)を連ねている。これを晩夏から晩秋にかけて堀り上げ、蒸してから外皮をはいで陽乾させたものが生薬の白及(はくきゅう)。肺結核の喀血や胃潰瘍の吐血などの止血に効果がある。またこの偽球茎は粘性があるので、名古屋地方では七宝細工の接着剤にも使われる。花言葉は、「互いに忘れないように」・「美しい姿」 、そして「無名戦士」

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▼もう80年以上も前の昔の話である。九州の久留米、筑後平野のまんなかに、水田村大字高井というおよそ90世帯が暮らす集落があった。村人の多くは、米作りをしながら家では小さな久留米絣の機織場を営んでいた。各家には二人から三人の織子がいた。休みは正月と盆だけ、早朝5時頃から夜中の12時頃までひたすら久留米絣を織り続けた。村にはいつもガッタン、ガッタンという音が響き渡っていた。農家の中には朝鮮半島から若い娘を連れてきて織子にしていたところもあった。白いチョゴリを着た若い織子が「アイゴー、アイゴー」と泣く声が、夜、筑後の田んぼに染みいった。

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▼その半農半工の家の一つ、民蔵の家には3人の男の子と1人の女の子がいた。民蔵は村の知恵者として頼りにされていた。村の久留米絣の図案はすべて民蔵が示した。村人は民蔵が示した図案にそって、絣を織った。村の世話役として細々としたことを全てしきってくれるのが民蔵だった。
▼三男の幸雄が5歳の時、母がなくなった。母の死の直前,父・民蔵は幸雄にこう言った。
「よく見ておけ、これがお前のお母さんだ。しっかりと覚えておくんだ。」 母の顔は思い出せないが抱きしめられた父から出た言葉はしっかりと刻まれている。
 それからほどなく父・民蔵も胃を悪くして、病に倒れた。村の選挙の書記係としてかり出された時、馬肉を食べたのが原因ではないか、村人はうわさした。薬屋が胃薬を持って頻繁に家に出入りするようになった。父は胃が痛み出すとソーダ水をがぶ飲みした。呑気な田舎医者はたまにしか来てくれなかった。医者は人力車の乗ってやってきた。広大な水田、蛙が賑やかに群れ鳴く畦道を、医者は人力車の上で呑気に新聞を広げて読みながらやってきた。


▼父・民蔵が寝込んでからというもの、家はあっという間に貧しくなった。民蔵は人減らしとして子どもたちを奉公に出さざるをえなくなった。尋常高等小学校2年生の2学期、長兄は中津の本屋に奉公にだされることになった。「学校をやめたくない。」と長兄はなきじゃくった。長兄が無理やり手を引かれて家をでていく光景を、三男の幸雄は今も忘れない。

▼次男の良雄は要領のいい子だった。担任の先生からこんなに好かれた子もないだろう。「わしの子にくれ。」と教師が本気で頼み込んだこともある。良雄は小学校の頃から、「わしは満州に行く。」と口癖のように言っていた。「小学生の分際で・・」村の大人たちは笑った。その良雄も雑貨屋に奉公にいくことになった。それが決まった矢先、父・民蔵は逝った。3人の兄弟と1人の妹が貧困の中、身よりもないなな取り残された。

▼奉公にでた良雄は「こんなに商才のある子はみたことがない。」と主人を驚かされた。そのまま辛抱強く勤めていればいいものを、なぜか良雄は突然、辞職し、その後も、呉服屋、鉄工所と職場を次々にかえていった。末っ子の幸雄も酒屋に奉公していた。甘えん坊の幸雄は毎日、その孤独に押しつぶされそうで泣いて暮らしていた。そんな時、何の前触れもなく、ひょっこりと兄の良雄が現われた。「お前、元気か?」「元気かって、兄ちゃんこそどうしていたんだ、今どこにいるの?」 兄はにっこり笑って弟に金を渡す。ある時は、食堂に連れ出し「ほしいものなんでも食べろ」と気前よく言う。そして再び消えてしまった。或る時、幸雄は風邪を引いた。その時撮ったレントゲン写真が真っ白だった。医者は結核と診断し、即、隔離だと言い渡した。しかし、症状は良くなっている。もう風邪はなおったように思う。どうしようか、と思っていると、兄が現われた。「熱も引いている。もう大丈夫なんだろ。」「うん、でも、隔離されるって」「治っているんだ。レントゲン写真なんて信用するな。よし、病院から逃げ出すぞ。」 兄は弟の手を引いて駆け出した。

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▼戦争が始まった。3兄弟はそれぞれ兵隊になった。奉公を続けるより兵隊になったほうが生活が楽になると思った。長男は苦学して軍医になった。三男の幸雄は海軍に入って通信兵となった。そして、次男の良雄は陸軍に入り、広島から船出し、南方にわたったという連絡が入った。

▼終戦後、幸雄は、青島沖で機雷の処理をしたあと故郷に戻った。水田村大字高井で、幸雄と同級生の男の子は10人いた。そのうち6人が戦死していた。

 帰郷してまもなく、茨城県から一通の手紙が届いた。差出人は次兄・良雄の属していた部隊の小隊長だった。良雄はインパール作戦に参加していた。ビルマとインド国境のコヒマで良雄たちは英軍とぶつかり敗走した。手紙にはその時の模様が書き連ねてあった。

 「・・・・・・日本では想像できない大雨が降り続いていました。私たちはゆくあてもなく山の中を敗走しました。その時、良雄君はマラリアにおかされていました。皆の肩にかつがれてやっと歩ける状態でした。・・・・、やがて、良雄君がふりしぼるように言いました。 『もういいから、自分を自分をここに置いて、行ってくれ』と・・・・・。私たちは草の中に良雄君を寝かせて・・・・行きました。 もし万が一、生きていれば、後を追ってきたイギリス兵に捕虜にされるかもしれない・・・・そう願うばかりです。・・・・」 

 兄が寝かされた草の上、そこは水浸しだったにちがいない。勝つ見込みのない戦闘、食べるものは当初から何も用意されず民家から略奪すればいいとする無責任極まりない暴挙。その常軌を逸した作戦の中で、もっとも自分を愛し支えてくれた兄が生け贄にされた。なぜ、こんな理不尽な目に遭わなければならないのか・・・・・・

▼九州の貧しい農家に育ち、懸命に働き、無名戦士として戦場を駆けた兄弟達。わが父、幸雄は、怒りをこめて戦場の惨禍を語り、兄・良雄の最期の姿に思いを馳せるくだりになると、いつものように涙にあふれ、いつものように話はそこで止まった。

▼ 雲南から朝鮮半島、そして日本列島にかけての湿地に自生する紫蘭の花、その花に?無名戦士?の花言葉をつけたのは誰だろうか。その人こそ、銃弾に倒れた草むらで目の前に飛び込んできた艶やかな紫を忘れられなかった名もない兵士だったのかもしれない。紫蘭を見かけるとそんなことをふと思う。
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2014年05月13日

●胡蝶花

シャガ(箸莪・射干)/アヤメ科アヤメ属。北海道を除く日本全国に自生している。中国にも自生しているので古い時代の中国からの帰化植物だと考えられる。 
花は外側3枚と内側3枚の花弁からなり、内側はほとんど白色だが、外側は淵が細かく切り込み、中央にオレンジ色と紫の斑点がある。オシベは3本、花柱は3つに分かれる。果実には種子はない。欧米ではあまりみない独特の花である。花言葉は反抗

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▼去年、目を付けておいた道端に今年もシャガの花が咲いている。なんと、清楚で優雅な花だろう。その群生は遠くから見れば、白い蝶が舞っているようにも見える。中国では「胡蝶花」と呼ぶこともあるそうだが、その方がこの花にはよく似合う。
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▼シャガは、縄文か弥生の時代に渡来した実に古い植物らしい。古代人に好まれた園芸種だったのか、それとも薬用として効用があったのか、日本に渡ってきた人々はどんな思いでシャガを携えてきたのか。
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▼シャガの果実には種子はないが、地下に根を張り着実に生き抜いてきた。人々から見放されても静かに毎年、自分の力で着実に花をつける野の植物には、逆に観る側の力量を試しているような気迫がある。

2014年05月12日

●カクテル


▼団地の入り口の花壇に、今年も見事に真っ赤な薔薇「カクテル」が咲いた。内側が黄色い花は今朝開いた花。徐々に色あせて枯れていく。真っ赤な花弁が背景の新緑に際立ち、そこにさわやかな風が吹き抜ける。

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▼団地の入り口が花壇に生まれ変わったのは、一人の住民Mさんの情熱による。もう7年前になる。都にかけ合い、斜面を花壇にすることをとりつけた。それから毎日、手入れを欠かせない。たった一人で丹念に作り上げた花壇は団地の名物にもなった。

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▼団地に花壇を造りはじめたのは、Tさんだった。定年後、地域活動に情熱をそそぐ一方で、駐車場や通路に空いたスペースに煉瓦を並べて花壇を作っていった。そのTさんが亡くなってもう5年になる。

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この団地を終の棲家にした住民たちが、静かな情熱を注ぐ花壇が華やぐ季節が今年もやってきた。

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2014年05月11日

●春紫苑


<strong>ハルジオン(春紫苑)/キク科ムカシヨモギ属 北アメリカ原産で大正時代、1920年頃に渡来し、関東を中心に広がったが、戦後になって全国に分布するようになった。茎は直立して上部で分枝する。蕾のときにうなだれる性質がある。同じ外来種のヒメジオンは似ているが蕾はうなだれない。花が紫苑(秋に花を咲かせるキク科の多年草)に似ていることから、牧野富太郎博士が命名した。
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▼テニス・コートを飛び出したボールを追ってカリンの樹の下に潜り込んだ。その影に咲くハルジオンに一条の光があたっている。一枚目の写真はその時、撮ったもの。愛らしく撮れたと満足している。ピンク色の蕾も可愛い。

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▼道端のどこにでも見かけるハルジオンだが、その姿が際立つのは木漏れ陽を浴びた瞬間だ。時には喜んで踊りだしそうな気配もみせる。大正時代に観賞用としてアメリカから渡来したが直ぐにブームは去り飽きられたらしい。しかし、その繁殖力を発揮しハルジオンは草むらや道端に図太く根を張り、いまや日本の春にはすっかりお馴染みになった。

▼ハルジオンは昔から気に入っている花なのだが、ちかごろ、ハルジオンにとっては屈辱的であろう一文にであった。
「ハルジオン。どうにも仕様のない雑草で、日本国中見ないところはなくなってしまった。大正中期に北米から渡来した越年草だが、株分かれした部分は二年間生き残るので年中姿が見られる。
 はじめは美しい紅紫色の花をつける観賞植物だったのに、先祖がえりしたためにすごい繁殖力をつけ、花もつまらない姿と色に劣化したまま猛烈な勢いで増えつづけているのである。この様子を、山仲間の小説家新田次郎君が昨年『春紫苑物語』として発表しているが、作家というものは物事をうまくつくりあげるものだと感心したが、同時にこんなつまらない草でも小説にまとめるには、大変な努力も必要だっただろう、と同情もしている。
 とにかく、雑草というより悪草の部類だから、どんどん採って食べてしまうほうがいい。味は幸いに悪くない。しかも、見かけによらず、シュンギクに似た味と香りを持つ。」 
▼まあ、ここまでけなされると、爽快である。著書は西丸震哉という農林省の人、本のタイトルが「野草を食べよう」だから仕方ないのかもしれない。いずれにしても、自分はハルジオンは可憐な花だと思う。この文に出会ってからますますハルジオンを意識するようになった。少しでも光を受ける白い花を見かけるとシャッターを押す。どんどん美しい姿を集めていきたい。

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▼さて「野草を食べよう」によると、ハルジオンの料理法は、汁の実、煮物、いため物、揚げ物。ゆでてひたし物、和え物、酢の物。たしかにシュンギクに似た風味がある。
 

2014年05月07日

●賢治の学校に咲く野花


ムラサキサギゴケ(紫鷺苔)/ゴマノハグサ科サギゴケ科 田んぼの畦など、すこし湿ったところに見られる多年草。花期は春から夏。根もとの葉の間から高さ10?15センチの花茎をのばし、淡紫色?紅紫色の花をまばらにつける。花冠は唇形で長さ1.5?2センチ。上唇は2裂、下唇は3裂する。雄しべ4個と雌しべは上唇に沿ってつく。柱「頭に触れると上下に分かれていた花柱の先が閉じ、しばらくするとまた開く。花の中央の黄褐色色の部分に毛が生えている。

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▼青葉茂れる東北、岩手県花巻市の花巻農業高校を訪ねた。その敷地内の「花巻農学校精神歌」の詩碑の周りに咲く可憐なムラサキサギゴケの花群れを、宮沢賢治を巡る花巻の旅の「花」としよう。

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▼宮沢賢治は大正10年(1921年)25歳で稗實郡立稗實農学校(のちの県立花巻農学校)の教師となり30歳で退職するまでを勤める。26歳の時に「精神歌」を書き、これが校歌となり今も歌い継がれている。
日ハ君臨シ カガヤキハ
   白金ノアメ ソソギタリ
   ワレラハ黒キ ツチニ俯シ
   マコトノクサノ タネマケリ

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▼花巻空港に隣接する花巻農業高校の正門に入ると、あの有名な「思索する宮沢賢治」が銅像となって立っている。その向こうから太鼓の音がこだまする。郷土芸能の鹿踊りを高校生たちが練習している。その前を通ると、皆がいっせいに「こんにちわ」と挨拶をしてくれた。清々しい。

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▼高校生たちの後ろに際立つ深紅のツツジの向こうに立つ古い日本家屋が目的とする「賢治の学校」と呼ばれる「羅須地人協会」だ。
賢治は30歳になる大正15年3月、岩手県立花巻農学校を依願退職する。「わたしも教師をやめて本当の百姓になって働きます」と友人に手紙を書いているように、飢饉や凶作で苦闘する農民の側に立ちながら公僕として安定した収入を得ていることへの矛盾を一掃したかったのではないかと推測されている。
4月から独居自炊の生活をしながら「羅須地人協会」を立ち上げた。その建物がそのまま、校内に遺されているのだ。そのいきさつについての説明文が掲示されていた。実に興味深い。

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「賢治先生の家は、もと花巻町下根子桜(今の花巻市桜町)に、先生の祖父宮沢喜助翁隠居所として建てられたものであります。
 大正15年に花巻農学校(今の花巻農業高等学校)を退職された宮沢賢治先生は、この家に「羅須地人協会」を設立、近隣の若い人たちや農村の人たちの教育の場とし、また多くの詩を書き、農耕にしたがい、自炊生活をして農村のため、捨て身の猛運動をはじめたのでした。
 そのために病気になり、とうとう三十七歳の若さで、先生は昭和八年九月二十一日豊沢町の自宅で逝去されました。生涯独身でした。
 昭和十一年桜の地に「雨ニモマケズ」の碑を建てるとき、この家は宮野目村の農家の人に譲られました。ところが、このたび花巻農業高等学校が、現在の地に新築されることになりましたら、驚いたことに、この賢治先生のゆかりの深い家が、一部分は直されたこともありましたが、大体昔のままの造りで学校の校内になる場所に健在だったのでありました。
 なんという不思議なめぐりあわせでしょう。同窓会に学校も協力、一同で熱心に復元にあたり、ここに賢治先生の住まれたなつかしい家が姿を現しました。そのうえ
そばの松の木の下、花に囲まれた庭園の一角に「花巻学校精神歌」の碑も建てられ、ほんとうに、皆さんに喜ばれる、すがすがしい気持ちよいところになりました。  昭和四十四年十一月七日 」

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▼建物の中には、学校で鍵を借り、入ることが出来る。
中には八畳ほどの教室がそのまま残っていた。この空間で、賢治は、土壌学・植物生理・肥料学・エスペラント・地人芸術概論・・・・と時間刻みの講義を30余名の若者におこなっていたのか。「まづもろともに輝く宇宙の微塵となつて無方の空にちらばろう」「世界ぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」・・・これらの名フレーズが生み出された「農民芸術概論綱要」もここでの講義用に執筆されたものである。
▼鹿踊りの太鼓の音が何度も何度も繰り返し校内に響き渡る。新緑の大気の中に光と共に、この学校は今も賢治に包まれていると素直に思った。

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▼「羅須地人協会」の玄関、黒板に「下ノ畑ニ居リマス 賢治」と書かれている。復元整備の際に、弟の宮沢清六氏によって書かれたものだが、消えないように農業高校の生徒によって上書きされ続けているのだという。まもなくあるじが帰ってくる時間かな。

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