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  東大作  「アフガンから東チモールへ」
     2008年10月21

     
                              
> 今、成田空港のYahoo Cafeからメールを誠文堂の店主に送っている。昨日店主にはお
> 会いした。久しぶりの日本は空気がさわやかで、季節の変わり目に感じる日本の四季の
> 豊かさを感じるにはいい日和だった。
                              
> これからインドネシアのバリ島を経由して、東チモールに向かう。始めて訪れる場所で
、どんな体験ができるのか、どんな調査ができるのか不安はつきないが、体力の範囲内 で全力を尽くすしかないと、これもまたいつもながらのことを思っている。

> 今回は一ヶ月間にわたり、20年に及ぶインドネシアの占領の後、国家建設を目指して苦闘を続ける東チモールの状況を、政府の幹部や野党のリーダーそして、住民への意識調査を行い、正統性を確保するためのこれからの課題とその解決に向けた提言を探るこ とになる。


> アフガニスタンでの調査が7月2日に終わった後、休むまもなくニューヨークに行き、 マカスキー平和構築担当国連事務次長補をはじめ、アフガン担当のチーフ政務官などと 次々とあう。マカスキー氏は、今年8月末を持って退官であった。この2006年に出会って以来、この2年間、どんなに忙しくても私の調査企画を一貫として支えてくれた彼女に感謝の言葉がない。彼女もまた、私のアフガニスタンでの調査とその成果を心から喜んでくれた。

> 国連本部で国連アフガン支援ミッションを担当するチーフのSは、私が2004年に国連本部を取材した時からの知り合いで、今では無二の親友に近い。私がアフガンの調査 のために国連本部への説得を始めたまさにそのとき、S氏もまた政務局別の部署から、 国連アフガンミッションを担当するチーフに就任した。これもまた、私にとってのまたとない幸運であった。それ以来、調査をNYからずっと応援してくれたS氏も私の調査結果を心から喜んでくれた。

> 夜食事をしながら、10ページほどたたき打った私の報告書の骨子と世論調査の結果をみ たS氏は「すぐにアフガン国連事務総長特別代表(アフガンの国連のトップ)に送りたい。これをそのまま送っていいか」と聞くので、私はこれはあまりに即席なので、一週 間だけ待って欲しい、と頼んだ。そしてバンクーバーに戻って、三日で13ページの政策提言と、世論調査の結果を表示したものを、国連アフガン支援ミッションの各幹部や 、S氏に送った。S氏はそれをすぐに、アフガン特別代表に送ってくれた。数日のうちに 、「特別代表から、この提言は彼がこれからのアフガンの平和構築の戦略を考える上で 極めて利用価値が高く、意義の大きいものだ。もっとこうした調査が必要だ」という連 絡があったと、s氏から少し高揚したメールが私のところに来た。

> こうして調査の結果をトップも含め広めようとしてくれているS氏に心から感謝である 。

> その後、休むまもなく、博士論文の研究計画書の採択に取り組んだ。この計画書を採択 してもらわないと、正式に博士論文を書き始められないのである。3人の教授の了解を取り付けるのに、3月に最初の内容を書いてからおよそ4回の書き直しを経て、8月末 、ついに採択会議にこぎつけた。採択会議が終わったあと、指導教官のリチャードプライス教授は、「君は既にアフガニスタンというきわめて難しい場所で驚異的な調査を行い、かつ研究計画書の採択も同期で最初にクリアした。本当に心からお祝いしている」 と温かい励ましのメールをくれた。私もこれで、あとは東チモールの調査を終え、博士論文を書き、それが今度は5人の教授に認められればついに博士がとれるところまで来 たことは嬉しかった。

> その後、今度はアフガニスタンの調査についての最終報告書の作成に取り組む。およそ70もの個別インタビューを毎日4つとか5つとかのペースで聞き、ノートに書きおこ しを作っていく。それが終わったのが9月15日。約束の9月30日まであと二週間し かなかった。土日もなくその後報告書に向かい、それをいつもの友人にネイテイブチェ ックをしてもらい、最終的に国連本部のPKO局に送ったのが10月1日早朝だった。

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> 実は、7月末にニューヨークに行った際、PKO局で発表をしないかと誘われていて、そ の期日が10月8日の予定だった。その一週間前までにレポートを送る必要があったため、10月1日がそのリミットだったのだった。その三日後から一週間ニューヨークに行き、10月8日、国連本部のPKO局にある、ベ ストプラクテイス部という、国連PKOの調査研究提言をしている専門の部署で、私の調査について発表を行う。このPKO局ベストプラクテイス部で発表を依頼されたのは、日 本人の研究者では初めてとのこと。1時間の発表には、S氏もはじめ国連アフガン担当官もきてくれ、全部で20人以上の参加があった。その後、30分近くやりとりをした 後、部のトップが、「大変すばらしい研究で私たちの活動にもとても参考になる。東チモールの調査が終わった後の是非また来て発表をして欲しい」と言われたのは嬉しかっ た。

> 報告書は、国連事務総長につぐNo2である政務担当国連事務次長を交えたアフガン戦略会議でも利用されると、これも政務担当の友人から聞いた。

> 会社を辞めてから4年間。たとえ国連に入れなくても、調査や研究を通じて、国連の平和構築活動に役に立つことがしたいとずっと考え、バンクーバーとニューヨークを往復 し、今年2月と5と6月にはアフガニスタンに行き、国連アフガン支援ミッションの特別な協力のもと、調査をなんとかやりとげることができた。それが、こうした形で、実 際にアフガンで国連を動かしているトップや、ニューヨーク本部で最高判断をする立場 の人たち、さらにこれからの改善を研究提言している人たちに、報告を活かしてもらえているとすれば、それは本当に体にむちをうってやってきた一つの成果かも知れないと、少し嬉しく思った。

> あと、アフガン支援ミッションの政務部の部長や、S氏の一生懸命国連本部の資格審査部の人間に私の経験や調査、熱意、分析能力などについて書き送り、資格の取得を応援 してくれた結果、遂にP4というシニアレベルの政務官の資格審査が正式に降りた。それはそのまま採用につながるわけではないが、実際に採用する人たちが、資格審査部に 働きかけて、私の資格を取ってくれたことについては、本当に感謝している。

> マスコミ出身者が、政務官としての資格を取るのは本当に至難の業で、その意味でも、 四年間一生懸命やってきたことが、少しは報われたのだろうか。

> しかし、実際に仕事につけたわけでもなんでもなく、これからまた東チモールで調査を行い、来年出版予定の日本語の原稿を書き、それから現場の国連の仕事に就くのか、博士論文をまず専念することになるのか、実際の仕事のオファーを見ながら判断していくしかない。

> ただ、私の資格審査のためにメールを送り、働きかけをしてくれたのは、日本人の先輩とともに、タジキスタン人だったり、ロシア人だったり、アメリカ人だったりした。そんな経緯を見ていると、なんとなく国連という組織もやはり捨てたものじゃないと思っ たりする。国の出身とかではなく、個人の熱意ややっていることを見て、評価してくれる人がいるとすれば、本当にそのことに感謝しなければならない。

> また調査を行う上で本当に多くの人にお世話になった。その中の一人は、旅行代理店に勤務する向井さんである。NHK時代からの付き合いである向井さんは、私が会社を離れているにもかかわらず、私のアフガンのビザの取得のために、何度もアフガン大使館に通い確認を取り続けてくれた。こうした人たち一人一人に支えられて、まだなんとか目標に向かって努力を続けることができていると本当に思う。



> これから東チモールである。なんとか無事に帰ってきたいと思う。「見てくればいいんです。ガイドブックだって、一度その場所を見たら急に頭に入るでしょう。一度いったら、その国の文献が嘘のように頭に入るようになるんです。それだけでいいんです。気張らずに行ってきてください」アフガンに入る前、そう励ましてくれた、犯罪被害者の会の会長の岡村勲氏の言葉を胸に、また別の平和構築の現場に向かいたい。



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 ※ 「草木花便り」の中での東大作の航跡
「2004年7月19日 曇天に咲く孤高のひまわり(「夢の誠文堂 店主より)」 
「2004年8月27日 オークの樹の下で 東大作 カナダからの便り@」 「10月1日 A<誤算>」
「2005年1月1日B<私と息子>」「2月6日C<出会い>」「3月6日D<壁>」「5月13日E<年齢>」「7月26日F<国連にて(1)粘り>」「G<国連にて(2)テーマ>」
「2006年2月6日H<カナダと格差>」「3月3日I<結果とオリンピック>」「10月6日J<カナダと新渡戸稲造>」
10月30日K<新しい出会い>2007年4月27日L<コースワーク終了
「2007年8月23日M<奇遇と三年>」  ◇「2008年1月5日N<クライマーズ・ハイ>」 
「2008年2月23日O<カブールからの便り1>」 
「2008年5月〜7月Q<アフガンからの便り1>」 


                      2008年10月21日