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  東大作  「東ティモールからの手紙」
         2009年4月1

     













10月22日から11月16日まで、東ティモールで現地調査を行った。アフガンでの調査が終わってから、三か月半後。まだその余韻と疲れが残る中での、調査の開始であった。  

まず東ティモールの首都であるディリの空港に降り立つと、南国の明るい光が、まぶしかった。通訳のジョアオさんと、運転手の方が、迎えに来てくれる。
     


   ↓リキサの海岸


海岸線を走ると、海の美しさに思わず見とれてしまう。まだ開発が進んでいないため、世界で最も美しいともいわれる珊瑚がまだ残っている。一日ダイビングをしても、40ドルくらいで潜ることができ、現地の外国人スタッフの間では人気らしい。お隣にあるインドネシアのバリに比べ、三分の一くらいの費用で、ダイビングを楽しめることができる。


    ↓リキサの海岸で日本占領時代について語ってくれた漁師

東ティモールの歴史を簡単に述べると、16世紀前半から、オランダやポルトガルが来て、この島を植民地にした。途中から、ポルトガルがティモール島の東側を、オランダがティモール島の西側を植民地とする。

太平洋戦争の際、日本が三年間、全島を制圧し占領支配を行った。このことは、あまり知らない日本人が多いのではないだろうか。

太平洋戦争の後、西側は、インドネシアがオランダから独立したのに伴い、インドネシア領となった。しかし東側は再びポルトガル領としての植民地支配を受け続けることになる。


1975年、ポルトガル政府が独立容認に動いた。その後、フレテリン(東ティモール独立革命戦線)が、ポルトガルからの独立を宣言した。

しかし、これを見たインドネシア政府が、侵攻を開始し、東ティモールを制圧する。その後、インドネシアは、違法な占領を、1999年まで続けることになる。

東ティモールの人たちは、インドネシアの占領に反対し、独立運動を続けたが、これに対するインドネシアの弾圧は凄惨だった。その結果、あわせて二十万人もの東ティモール人が犠牲になったと言われている。

1998年、インドネシアのスハルト大統領が辞任し、ハビビ副大統領が大統領になり、東ティモール政策が転換された。1999年には、独立か、インドネシアとの併合維持かを選択する国民投票を、東ティモールの人たちが行うことを容認する。

国民投票は、国連が全面的に支援する形で行われ、およそ80%の国民が、独立を選択し、東ティモールの独立が決まった。


しかし投票の結果が出た直後から、インドネシア軍や警察、さらにインドネシアに支援された「併合維持派」の民兵が、東ティモール全土で破壊行為を始めた。国連は、「治安については責任を持つ」としたインドネシアを信頼していたため、治安維持部隊を派遣していなかった。

その結果、東ティモール全土で、すさまじい破壊が行われ、家や公共施設の四分の三が焼かれ、住民のほぼ全てが国内難民となり、千数百人が殺害された。

この事態に対応すべく、オーストラリアを主体とする多国籍軍が編成された。しかしオーストラリアは、東ティモールに介入するにあたっては、インドネシアの了解が必要という立場であった。そのため、当時のアナン国連事務総長は、直接ハビビ大統領と交渉し、遂に介入への容認を取り付けた。

多国籍軍が東ティモールに入り治安は回復され、ルワンダのように数十万人が虐殺されるという最悪の事態は免れた。その後、国連安保理は、「国連東ティモール暫定統治機構」を新たに設立し、国連が主導する形で、新たな国造りを支援することになった。

1999年から2002年までの三年間、いわゆる国連による暫定統治が行われた。当初介入を行った多国籍軍も、国連PKOに改編され、まさに国連が、政治的な枠組み作りも、治安維持も、全面的に担うことになった。


三年間の暫定統治で、憲法を制定し、様々な法律を作った後、2002年に大統領選挙が行われ、シャナナ・グスマン氏が大統領に選ばれ、東ティモールは遂に独立を果たした。

比較的治安が安定したまま国造りが進んだ東ティモールは、「国連による国家再建(この場合、国家建設)」の代表的な成功例と見られていた。2005年には、国連PKOや国連警察も撤退し、文字通り、東ティモール人自らの手で国家運営が始まった。

しかしそれから一年もたたない2006年5月、政治的な危機が発生した。詳細は省くが、東ティモール軍の中で、その処遇に不満を持って軍を離脱した兵隊達と、軍の間で衝突が起き、それが東ティモール警察にも広がり、それぞれの派同士で、衝突が繰り返された。

こうして治安当局が機能不全に陥ったことを見て、千人とも言われる東ティモールの若者やギャングに属する人たちが、首都ディリで放火をして回り、その結果、10万に近い人たちが家を失い、再び国内難民となったのである。

この事態を受け、東ティモール政府は再び、オーストラリアなどに介入を求め、多国籍軍が介入し治安が回復された。また国連も、再度、1500人近い国連警察と大規模なミッションを派遣し、東ティモールの再建に取り組むことになった。

その翌年の2007年には、大統領選挙と国会議員選挙が行われた。選挙はなんとか無事に終了し、今度は、グスマン氏が、首相となり、その盟友であるラモス・ホルタ氏が大統領となった。2002年から2006年まで、議会の実権を握っていたフレテリンは、この選挙を経て、野党となった。

その後、2008年2月には、2006年危機の際に、政府に対する攻撃を行い、その後、反政府運動を続けていたレイナード元軍憲兵隊長が、大統領と首相に対する襲撃を行う。幸い、ホルタ大統領は銃弾を受けたものの一命を取り留め、グスマン首相も無事であった。

私が調査に入ったのは、この襲撃事件の9か月後であり、ディリも平静を取り戻し始め、国内難民の多くも、政府の支援金をもらって、自分の村に戻り始めているころであった。

     ↓東ティモールの治安維持を担当する国連警察

とにかく治安がよいのには驚いた。月の重大犯罪(殺人、レイプ、誘拐など)の平均件数が、国全体でなんと二件ということだった。これは、今も多国籍軍を派遣しているオーストラリア本土よりも少ないということである。

つまり、1500人とも言われる国連警察と、オーストラリアを主導とする多国籍軍(およそ700人)がいる間は、治安は安定しているということである。

問題は、いかに、そうした外部の主体がいなくなっても、東ティモールの政府が自立できるのか、ということであろう。

私の調査の主題は、前回のアフガンの稿で説明したように、「どうすれば平和構築を通じて、正統性を持った政府を確立できるか」である。その意味では、東ティモールは、2005年の段階で、正統性を持った政府の確立は可能であろうと、国際社会が判断し、国連が撤退したが、それができなかったことが、2006年の危機で明らかになった例とも言える。
            ↓ 東チモール国会    
さらに、2007年の国会議員選挙では、フレテリンが全体の六十五議席のうち、最も多い二十一議席を獲得したが、それ以外の政党が連立政権を樹立したため、フレテリンは野党となった。これについてフレテリンは、選挙の結果は認めるものの「現在の連立政権には正統性がない」という主張を続けている。

まさに、「正統性の有無」が、東ティモールの政治における最大の焦点になっているのである。

私の今回の調査の目的は、@現在の政権側が、政府の正統性を高めるためにどんな政策を行っているのか。A野党のリーダーはそれをどう批判し、どんな主張を繰り広げているのか。B国連など外部アクターはどのような努力を行っているのか。C東ティモールの自立にとって最大の課題といわれる治安部隊の改革はどうなっているのか。Dさらに東ティモールの一般市民の人たちは、現政権の政策や正統性をどう感じているのか。また国連や多国籍軍の駐留をどう受けとめているのか。さらに治安、経済、雇用など、日々の暮らしが改善されていると感じているのかどうかなど、広範囲に調査を行うことであった。

アフガンと違い、予算の関係もあって、四週間しか滞在できず、上の全てを調査することはかなりのハードスケジュールだった。また毎日三十七度や八度になる東ティモールで、一日六件や七件のインタビューをこなし、更に、東ティモールの三つの地域で世論調査を行う準備をすることは、正直、精神的にもぎりぎりであった。

しかし、アフガンと同様、ここでも本当に多くの人の協力に恵まれた。まず東ティモールの国連大使であるネルソン・サントス氏は、2007年にニューヨークで会って依頼、ずっと連絡を取り合い、調査について応援を御願いしていたが、実際私のインタビュー依頼を、外務大臣など政権の要人と、野党の指導者双方に送ってくれ、インタビューを実現してくれた。さらに私自身、大臣の秘書との交渉を繰り返し、経済・開発担当大臣、財務副大臣、警察担当長官、軍担当長官、など多くの人にインタビューすることができた。    

                                                   ↓カーレ国連東ティモール特別代表
  
また、国連側も、この二年間ずっと連絡を取り続けていたこともあり、アトル・カーレ国連特別代表も、訪問してすぐにインタビューに応じてくれ、調査について全面的な応援を約束してくれた。カーレ氏とは、2007年にやはりニューヨークで一度会っていたので、歓迎してくれた。そのおかげで、国連東ティモールミッションの幹部ほぼ全てにインタビューすることができた。

嬉しかったのは、東ティモール駐在日本大使に挨拶に伺った際、「先ほど、カーレ特別代表と会ったら、『日本人の東という、研究熱心な素晴らしい学生が非常に重要な調査をしているので、日本大使館としても応援してあげて欲しい』と向こうから言われてしまいました。」と話してくれたことであった。こうした応援ほど有り難いことはない。

また国連政務官の紹介で、国連警察のトップや、東ティモール警察の制服組の幹部などにもインタビューができた。

また、フレテリンの指導者である、アルカティリ元首相や、ダ・シルバ元首相なども、それぞれ一時間以上の長時間インタビューに応じてくれた。野党としてなぜ選挙の結果を受け入れたのか。一方で、なぜ現政権は正統性がないと考えているのかなどについて、詳しく聞くことができた。

またアルカティリ氏は、2006年危機の時の首相でもあったため、その危機についての、彼の側からの解釈や見解も詳しく聞いた。

     ↓ダ・コスタ外相

一方で、現政府の外相であるダ・コスタ氏は、最初に30分くらいのインタビューに応じてくれた後、「素晴らしい調査なので、是非応援したい」と言ってくれ、調査の最終日に、再び1時間半ほど、今度はお茶を飲みながらインタビューに応じてくれた。
            ↓外相の妻ミレナ・ビレーさん



さらに2002年までの国連統治時代の、「東ティモール国民評議会」のNo2であり、しかも外相の妻でもある「ミレナ・ピレーさん」も紹介してくれ、彼女にも当時の状況について長時間インタビューすることができた。

また、内閣の調整担当の長官である、アジオ氏も2回にわたってインタビューに応じて、過去の国連の失敗なども含め、詳細にその意見を聞くことができた。

ラッキーだったのは、つてがなかった「東ティモール軍」の制服組の幹部へのインタビュー交渉だった。軍の改革については、国連の任務に直接入っていないため、なかなか制服組へのインタビュー交渉を始めるルートがなかった。

どうしようか迷っていた丁度その頃、通訳のジョアオ氏と共に、スーパーマーケットで買い物していた際、東ティモール軍の制服を着ていた二人の軍人を見かけた私は、せめて軍人の写真を撮りたいと思い、正式な企画書や日本の国連大使の手紙なども見せつつ、写真を撮ってよいか、お願いをした。 
                                        ↓東チモール軍のザビコ氏

その時、二人の軍人に許可を与えていた、横にいた中年の男性が、実は、独立闘争の英雄であり、現在制服組のNo3であるサビコ氏であった。

もちろん私は顔を知らなかったが、通訳のジョアオ氏は、普段、国会の通訳などをしていることもあって、国の重要な人については全て精通しているという、素晴らしい通訳兼コーデイネーターだった。写真を撮った後、ジョアオ氏は「あの二人の横にいる人こそ、No3の人ですよ」と私にささやいた。

それを聞いた時、三人はすでに、支払いを済ませ、スーパーマーケットを出ようとしていた。私は、とりあえず私たちの支払いをジョアオ氏に任せ、店の外に走っていき、サビコ氏に英語で、「是非電話番号を教えて欲しい。できれば是非インタビューしたい」ということを話した。

サビコ氏は英語に流暢ではなかったが、電場番号の意味は分かってくれ、私の手帳に番号を書き込んでくれた。

後日、通訳のジョアオ氏がその番号に電話して、企画の趣旨を改めて説明し、無事に一時間のインタビューをすることができた。2006年の危機の際に、如何に政治家から軍の幹部に反乱を共に起こすよう誘惑する電話が掛かりつづけたか。現在、そうした政治利用を防ぐためにどんな努力をしているかなどについて、詳しく語ってくれた。さらに、軍の制服組のNo2も自ら紹介してくれ、そのインタビューもできることになった。
     ↓学生による調査風景(リキサにて)
こうした政権側や、警察、軍、そして野党の幹部やリーダーに徹底的にインタビューをすると同時に、東ティモールの首都と、東のラウテム県、西のリキサ県で、それぞれ100人ほどの世論調査を行いたいと考えた。

それは、アフガニスタンで、やはり三か所で、全部で260人の世論調査を行ったことが、その後の政策提言を行う上でも決定的であった教訓から来ていた。また比較調査を行う上でも、東ティモールでも同じような調査を行うことは不可欠と思われた。

さらに、東ティモールは、東側に住む人と西側に住む人の間に歴史的な対立があると言われ、東側と西側で、政権の正統性や、国連などへの意識がどう違うかを知ることも重要であった。

アフガンと違い、東ティモールは治安の心配がないため、逆に、世論調査も全て自分の力でやらなければならなかった。つまり、調査員をそれぞれの場所で雇い、彼らを訓練し、車をレンタルし、運転手を雇い、そしてどこで調査を行うかを決めていかなければならない。

幸い、7人乗りのバンのレンタルや、その運転手などについては、現地のJICA事務所がのスタッフの方々が色々と助言をして下さり、何とか用意することができた。

そして東の端にあるラウテム県での調査については、ラウテム県で10年近く活動を続けている日本のNGOであるアフメット(AFMET=東ティモール医療友の会)の協力を得ることができた。アフメットの歯科医師であるプロジェクトコーデイネーターの小林裕さんとアドミニファイナンスオフィサーの佐藤邦子さんの二人が、調査の企画に賛同し、お二人はもちろん無償で、協力してくれた。本当にお二人の協力には感謝している。

そのアフメットの現地スタッフの人たちや、さらにその地元にある他のNGOのスタッフの方々が全部で7人集まり、三日間私の調査を担当してくれることになった。

    ↓ 通訳:ジョアオ氏

首都のディリからラウテム県まで、断崖絶壁のような山道を延々走り、六時間で、アフメットにたどり着いた。その後、そのまま、待ってくれていた東ティモール人スタッフの人たちとの打ち合わせに入る。私が英語で話し、それをジョアオ氏が通訳してくれる。

その上で一度、アンケート用紙に目を通してもらい、その後、スタッフ同士お互いにアンケートをやりあって、やり方に疑問がないようにしてもらい、実際の調査でミスをしないようにしてもらう。

調査に参加してくれたスタッフの中に、地域の名士である、ジェステイーノさんという年配の方がいてくれたことも大変助かった。ずっと学校の先生を務めながら、独立闘争も闘ってきた筋金入りの活動家だが、一方で言語学者としての研究も続けておられ、大変穏やかな方でもあった。

                          ↓調査に協力してくれたジェスティーノさん

ジェステイーノさんの指導もあって、どの村をどんな順番で回るかを決める。私は土地勘がないので、その辺りはお任せした。ジェステイーノさんも「こうした調査は初めてのことです。非常に有意義でありがたい」と言って、自分の企画のように熱心に手伝ってくれた。

翌日から、二人づつ組を作ってそれぞれの村に分かれ、ランダムに出会った人たちに協力を呼びかけ、アンケート調査に応じてもらう。一人あたり、40分くらいかかる調査であり、一日で10人ほどから集めるのは大変であったが、みな、酷暑の中、本当に頑張ってくれて、私も胸が熱くなった。
  ↓調査に協力してくれた家族の一つ
私自身もジョアオ氏と共にアンケートを持って村を歩き、一日四人ほどからお話を伺った。中にはほぼ盲目で、しかも四人の子供を抱え、畳二畳ほどの場所に、わずかな調理器具だけを持って生活している人などもいたが、それでも、一時間半以上にわたって、調査に応じてくれて、きちっと話をしてくれる。

紛争に巻き込まれ視力を失うまでは、ディリで政府関係の仕事をしていたという彼も、「このような調査をしてくれて本当に嬉しい」と言いながら、一つ一つの質問に丁寧に応えてくれた。

東ティモールの調査を始める前に、「東ティモールの一般の人に世論調査しても、みなYes Yes を選び、調査にならないのでは」という懸念の声があったが、私自身、聞き 取りを行って、そんなことはないと確信した。むしろ、選挙があれば常に80パーセントの人が選挙に参加する土地柄だけに、政治的な問題についての意識はとても高かった。

またアフガンと違い、自由に女性にもインタビューできることが、やはり気分が少し楽になる。アフガンでは、男性である私が直接一般の女性に聞き取りをすることなど、文化的に許されない(それが、偏見につながってしまうため)。しかし、東ティモールでは、色んな女性が自由に質問に答えることができる。


またラウテム県にいた一日は日曜日であったため、午前中、教会でのミサに参加させてもらった。

日曜日だけは、みな一番よい服をきて、教会でのミサに参加する。

子供達の笑顔が輝いている。貧しい人が多いはずだが、みなきれいに着飾っていて、しかも幸せそうな表情をしているのが印象的だった。


ラウテム県では、2006年の危機の時も暴動はなかったので、1999年依頼、ほぼ10年間平和な状況が続いている。経済的にはそれほど飛躍的な向上はないかも知れないが、学校はほぼ全ての学区に建設され、子供も学校に通うことができ、病院などもそれなりに建設されている。

そうした平和と、「ゆっくりとした進歩」があることが、人々にこんな笑顔を与えているという実感が、私の中で広がった。





 ↓ラウテム県で調査に協力してくれたスタッフ
結局二日間で、ラウテム県で102のアンケートを集めることができた。最終日に、スタッフのみなで集まって打ち上げを行う。スタッフの人たちと最後に写真をとったが、みな仕事をやり遂げた満足感を見せてくれていて、私としても嬉しかった。

アフメットの小林さんと佐藤さんが、「東ティモール人スタッフがみな、『本当によい調査に参加させてもらって嬉しかった。Happyだった』と言ってました」と言ってくれた事も嬉しかった。

夜は夜で、三日泊まったうち二日は夜になっても電気がこなかったが、それでも小林さんと佐藤さんの手料理を頂きながら、私が持ってきたワインを飲みながら東ティモールのことについて色々と話を聞くことができ、至福の時を過ごすことができた。近くで捕れたばかりという、魚のおいしさが忘れられない。



                                                      ↓アフメットの小林さんと佐藤さん
シャワーがないため、バケツにためた水をかぶって体を洗うが、それがまた気持ちよかった。逆にこの地域一帯で、蛇口をひねったら水が出てくるのは、このAFMETの事務所だけだと聞いた。村人はみな、何分も歩いて、井戸までいって水を汲んで生活している。

しかし小林さんと佐藤さんが、このような生活環境で、献身的に地域の人々のために尽くしておられる姿には感動した。アフメットは、この10年間で、ラウテム県全体で、160人もの地域ヘルスワーカーを養成した。そのヘルスワーカーが、保健師として、それぞれの村で、地域医療の中核的な役割を担っている。

村で病人が発生したら、まずそのヘルスワーカーが状況を見、場合によってアフメットに連絡し、病気が重い場合には、アフメットが車を飛ばし、診察をする。もしさらに医療が必要な場合は、県に一つある中核病院まで運んであげる。

さらにアフメットの事務所にも診療所があり、小林医師と、地元の看護師さんなど、十人のスタッフが常駐し、地元の人たちの診療を行っている。

つまりはアフメットは、ラウテム県の人たちの医療にとっては欠かせない存在になっているのだ。

こうした日本のNGOの人たちの活動を、直接見ることができたことも、今回の調査の大きな成果であった。

またジェステイーノさんや、その他の若い跳ねるような躍動感を持った人たちと、村を歩き回って一緒に調査活動をしたことは、私にとっても非常に充実した時間であった。

アフメットの人たちや、一緒に調査を行ってくれた東ティモール人スタッフの方に心からお礼を言って、ラウテム県をあとにした。

それからまた、海岸線を巡って、首都のディリに戻る。戻ると今度は、首都ディリと西のリキサでの、世論調査だった。
                                              調査に協力したくれた東チモール大学の学生達
こちらについては、東ティモール大学の大学生を5人雇うことができ、一日トレーニングをしたあと、今度は東ティモールの人たちが運営しているNGOをいくつか訪問して、そこに訪ねてくる若者や人々に対してアンケート調査を行う。さらに、それぞれの学生の地元の村や町で、アンケート調査を行ってもらった。

その結果、首都ディリでは、112の回答を集め、最後に西にリキサに行った。こちらは日帰りで通えるため、みなで大きなバンに乗って向かい、村を回っては、人々に協力を御願いし、調査を行っていく。学生の人たちも段々自分で工夫をして、場所を探し、次々と回答を集めてくれる。自然と、リーダー格の人もでてきて、その人の指示のもとに、調査を進めていく。優秀で勤勉な学生が多く、本当に幸運に思った。

私は途中で腹痛に悩まされ、しかも水があるトイレなど地方にはないので、この時ばかりは参った。正直、泣きそうであった。なんとか回復し、そのまま聞き取りを続けることができてよかった。

海岸沿いの漁村では、太平洋戦争当時、日本の占領支配を経験したというおじいちゃんにも会った。一日七匹の魚の提供を命じられて大変だったと、色々日本軍に関する思い出話を聞かせてくれる。

「こんな調査を受けるのは初めてだ」といいながら話をしてくれたが、最後に、「政府がどうなろうと、私はここで海に出れば魚を捕って食っていける。今年はじめて、年200ドルの年金をもらったが、そんなものなくても生きてはいけるんだ」と淡々と、しかし自尊心を持って話してくれたことが、印象的だった。

地方の人たちの話を聞いていて、個人的に印象に残ったのは、セルジオ・デメロ氏についての村人達の感想だった。デメロ氏は、1999年から2002年まで、国連特別代表として、暫定政府を率いたブラジル人である。

彼が、東ティモールの指導者の意志をなるだけ尊重しながら、慎重に国造りを進めたことに対して、東ティモールの政治指導者からは賛否両論があったが、一般の人々の間での支持は、絶大なものがあった。全ての県で、9割近い人が、デメロの統治を支持していた。現在の政府の政策やその正統性については、東と西で全く支持率が異なる一方で、デメロ氏への支持は全ての地域で圧倒的だった。

その理由として、「デメロはとにかく地方まで足を運んで、国連が何をしているかを話し、人々が何を望んでいるのか、聞こうとしてくれた」と応える村人が多かった。

リキサ県の、5軒のお土産さんが集まった海岸沿いの小さな集落で聞き取りを行った時も、その集落のリーダーのまだ若い20代くらいの女性が、「デメロはこんな小さな村まで足を運んで、対話集会を開き、私たちの話に耳を傾けてくれた。私もそんな集会に参加して、新しい国ができると実感して感動しました」と話してくれた。そして今の政府については、「こんな村に来るなんて、今の政府の要人は考えもしないんじゃないでしょうか」と静かに語った。

デメロは、東ティモールの建国に成功した後、いずれは国連事務総長の地位も確実と言われていた。しかし、2003年、アメリカのイラク占領にともない、国連のイラク代表としてアナン事務総長によってイラクに派遣される。その年の八月、国連バグダット事務所が自爆テロによって爆破され、デメロは非業の死を遂げた。

私が2004年に制作した「イラク復興 国連の苦闘」は、まさに、そのデメロの死を境に、アメリカブッシュ政権の政策変更を求めて立ち上がった、アナン事務総長をはじめとする国連事務局の闘いを追ったものであった。

それから七年。デメロ氏の功績をある意味で証明したことになる今回の調査の結果を、天にいる彼はどんな思いで見るのだろうか。調査の結果を見て、ふと、そんな気持ちを抱いた。

西のリキサでも、最終的に105の調査を集めることができ、我々は首都のディリに戻った。

最後の一週間、私は再び一日六から七つのインタビューを行いながら、アンケートの集計作業を進めた。調査を行った学生たちが、一つ一つの結果をみながら、慎重に集計作業を行ってくれた。集計にあたっては、東ティモール駐在日本大使である北原大使の特別なご配慮で、東ティモール大使館の一室をお借りすることができた。

ラウテム県、リキサ県、ディリ県、三つあわせて319のアンケート調査の集計が終わったのは、私が東ティモールを出発する一日前だった。

大使館の前でみんなで集まって写真を撮る。もちろん日当は払ったが、一生懸命作業を行ってくれた東ティモールの学生たちに心からお礼を言った。

東ティモール大学は東ティモールでは一番の大学で、調査に参加してくれた学生はみな、これからこの国の将来を背負っていく人たちであった。今回、地方も含めて一般の人たちから話を聞き続けた経験を、これからの国造りに、是非活かして欲しいなと思った。

(今回の世論調査の結果やインタビューの内容などをまとめたものは、今年六月に刊行される予定の「平和構築〜アフガン・東ティモールの現場から〜」(岩波新書)の中で紹介しますので、それを読んで頂けたらと、我が儘ながら希望しています。)

約一か月間、一日の休みもなく走り続けた調査であったが、途中大きな病気をすることもなく、なんとか当初の予定の調査を行うことができた。

なんといっても、治安がよいということがいかに大事かということを、実感するばかりだった。基本的にどんな地方でも、車を借りれば、自由に行けるのである。

治安さえよければ、たとえゆっくりでも、この国がもつ石油資源(石油基金の利子だけで、年間400億円の収入が見込まれている)を使って、人口100万人であるこの小さな国を、すこしづつ、発展させていくことができるはずである。

その意味では、「平和」の存在がいかに重要であるか。アフガンと東ティモールの二つの平和構築の現場で調査を行うことで、私自身、改めて深く実感することができた。

さらに、アフガンと東ティモールの人たちが共に、他の外国に比べれば、「国連」に対して圧倒的な信頼を置いていることが、調査を通じて明らかになった。東ティモールでもアフガンでも、圧倒的な多数が、「多国籍軍よりも、国連こそが、軍事的にも政治的にも、平和構築の中心を担うべきだ」と答えていた。


このことは、自分自身のこれからの生き方を考える意味でも示唆的であった。

国連の無力さを指摘するのはたやすい。しかし、紛争現場で苦しんでいる人から見れば、やはり一国による介入が「国益のためではないか」と疑ってしまうのに対し、国連の方がまだ、安心して受け入れられることは、いくつかの例外はあるものの、事実なのであろう。

こうした国連の信頼、もしくは「正統性」を、いかに紛争当地での正統性ある政府の確立につなげていけるかが、これからの平和構築における、大きな課題であろう。

そうした課題に挑む上で、私の調査が少しでも役にたってくれればと願っている。そして、アフガンと東ティモールの双方で調査を応援してくれた、数え切れない人たちに、とにかく感謝の気持ちを伝えたい。



























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 ※ 「草木花便り」の中での東大作の航跡
「2004年7月19日 曇天に咲く孤高のひまわり(「夢の誠文堂 店主より)」 
「2004年8月27日 オークの樹の下で 東大作 カナダからの便り@」 「10月1日 A<誤算>」
「2005年1月1日B<私と息子>」「2月6日C<出会い>」「3月6日D<壁>」「5月13日E<年齢>」「7月26日F<国連にて(1)粘り>」「G<国連にて(2)テーマ>」
「2006年2月6日H<カナダと格差>」「3月3日I<結果とオリンピック>」「10月6日J<カナダと新渡戸稲造>」
10月30日K<新しい出会い>2007年4月27日L<コースワーク終了
「2007年8月23日M<奇遇と三年>」  ◇「2008年1月5日N<クライマーズ・ハイ>」 
「2008年2月23日O<カブールからの便り1>」 
「2008年5月〜7月Q<アフガンからの便り1>」 「2008年10月21Q<アフガンから東チモールへ>」 

                      2009年4月1日