東大作・カナダからの最後の手紙
2010年3月21日
今日をもって、このカナダからの手紙も、いったん終わることになる。
私は既に、アフガニスタンの首都、カブールに去年(2009年)12月21日から国連政務官として赴任している。
しかし、カナダで家を守ってくれていた妻と子供が、今日で、カナダを引き払い、日本に戻る。
その意味では、これが「カナダからの最後の手紙」となる。
2004年の8月に、NHKを辞めて、国連政務官を目指すことにして、カナダのブリテッシュコロンビア大学のMA(修士課程)で政治学を学び始めてから、5年半。
本当にカナダという国にお世話になった。心から感謝の気持ちを述べたいと思う。
アフガニスタンは、現在、平和構築を行うために国連ミッションが配置されている国の中で最も危険な国であるため、ほぼ一ヶ月半から二ヶ月間に一度、10日前後の休みを、もらえることになっている。
そのため、最初の休暇を、2月の中旬から末にもらって、バンクーバーでの冬のオリンピックを家族と楽しみながら、引越しの準備や箱詰めをすることにした。
幸い、2月13日に、女子アイスホッケーの予選を、子供と妻と三人で見に行くことができ、カナダが16−0と圧勝した。
そして、カナダを出る前日、息子の大誠と二人で、女子アイスホッケーの決勝戦を見に行った。このチケットは、二時間くらい、インターネットでキャンセル待ちをまって、必死に申し込みを続けてようやく得たもので、息子もずっと楽しみにしてくれていたものだった。
オリンピックは、終盤に入って、カナダの選手のゴールドメダルが続き、町はもう沸き立っていた。最終的にカナダは、これまでの冬のオリンピックで、最も多くの金メダルを獲得することになる。
球場にはさまざまなゲストが来ていたが、私にとって感慨深かったのは、この草木花便りで4年前に紹介した、ヒューゴ選手が、応援に来ていたことだった。
ヒューゴ選手は、4年前のオリンピックで、33歳にして、スピードスケート5000メートルで金メダルを勝ち取り、私たちを感激させてくれた。その後、私財を投じて、恵まれない第三世界の人たちにスポーツを普及するNGOに寄付していたことも、ここでお伝えした。
そのヒューゴ選手は、その後も、こつこつと鍛錬を続け、なんとこのバンクーバーオリンピックでも、同じ5000メートルで、今度は銅メダルを獲得したのである。
私は彼女が4年前、テレビのインタビューに対し、「私は、毎日毎日が違う日だと考え、毎日毎日を新しいチャレンジと考えて、目標に挑戦しているんです。そうすれば夢は必ず叶うのだということを、カナダの人たちに伝えたかったのです」と話していたのを思い出した。そして、きっと彼女は、その後4年間も、同じ姿勢で毎日チャレンジを続けたのだろうなと思った。
私は、どうだったであろうか。
一応、前回の草木花便りで紹介したように、「平和構築 アフガンと東チモールの現場から」(岩波新書)は、去年6月に出すことができた。
その後、7月中旬に、国連のアフガン支援ミッションから、ずっと求めていたP4というシニアクラスでの国連政務官の内定が出たことを知らされた。
しかし、実際に赴任し勤務するまでは数ヶ月かかりそうということだったので、それまでの時間を、本の中で提案しているアフガンの和解支援策について、研究者として訴えてまわることに決めた。赴任するまでは、研究者として出演したり取材に応じたりするのは問題ないという確認もとることができた。
幸い、日本では、この調査に関し色々な大学や研究機関、そして政党や外務省で話す機会を与えていただいた。自民党のアジアアフリカ研究会(これは2008年暮れ)、民主党の外務防衛部会、超党派の「平和構築議員連盟」、その他、JICAでも何度か話す機会を与えて頂き、早稲田大学や青山大学、東海大学など色々な場所でも講義に呼んで頂いた。
また、朝日新聞、毎日新聞、日経新聞などでも、私のアフガンの平和構築に向けた和解に関する提案について、紹介してくれた。そして、2004年まで11年間勤めたNHKも、全部で4つの番組で私の提案について話す機会を提供してくれた。
JICAの理事長で、この5年間私を変わらず応援してくれた緒方貞子氏も、外務省の幹部をはじめ、関係者に私の本を読むよう、いつも薦めてくださったこともあり、色々な外務省の方に話をする機会を得ることができた。
また韓国政府のシンクタンクや、アメリカの国務省などでも、提案について話を聞きたいという話があったので、これは自費で韓国やワシントンに行って、案を説明してまわった。
貯蓄も少ない中、自費であちこち飛び回るたびに、「こんなことをしていて無駄に終わるかもなー」と何度も思ったが、「まあできるところまではやってみよう」と考え、ほぼ毎日のようにどこかで講演や、話をする日々を続けた。
9月にもう一度日本に戻った際には、政権交代にもなっていて、鳩山首相が最初の外務事務次官との会談で、私の本やアフガンの提案についてわざわざ言及したと聞き、かなり希望をもった。その後、岡田外相にも直接お会いし、また担当する全ての局長にも、再度お会いして、案を説明してまわる機会も得ることができた。局長の中には、これまで学会でお会いして以来、ずっとおつきあいしていた方などもいて、その意味では、私のことを、気長に応援してくれていた外務省の方々にも、感謝する毎日だった。
一方で鳩山首相や岡田外相も政治主導で、アフガン政策について短い期間で決断され、国連総会という大きな舞台で、日本が、アフガニスタンでの和解や再統合を、これまで日本が培ってきた職業訓練など民生支援のノウハウを使いながら、アフガン政府と共に、主導していくことが、公式に発表された。
その後、岡田外相のアフガン訪問があり、こうした和解案についてもカルザイ大統領への打診があり、その上で、鳩山首相とオバマ大統領の会談直前、日本が打ち出したアフガン新戦略の中でも、和解再統合は、大きな支援の柱として据えられた。
私も、すでにカブール赴任の知らせをもらっていたが、10月末に、アフガンの国連職員が襲撃され、国際スタッフが5人なくなる事件があり、さらに赴任が少し遅れた。
しかし、11月になって、12月中旬にもアフガンに入ることができるという知らせがあり、私も、11月にもう一度日本に立ち寄り、提案を聞いて下さった多くの方々にご挨拶し、これからは国連の側からアフガンの平和構築に少しでも努力していきたいという旨を話してまわった。
一応、日本人の国連アフガン支援ミッション(UNAMA)の職員としては、今一番上のランクでもあり、その意味では責任も感じている。
2009年12月21日にカブールに入った。2008年に二ヶ月間調査を行って依頼、一貫して私の採用を支えてくれた政務部長をはじめ、多くの方々に挨拶をして心からの感謝を述べた。彼らもまた、私の本や、その後の活動、そして今回の赴任を心から喜んでくれた。
そして、このUNAMAの中で、和解再統合問題の担当者として、カブール本部で勤務することになった。
これも、日本の外務省や、カブール大使館、国連代表部、JICA,、そして民主党、自民党を問わず、これまで私を応援してくれた多くの人たちのおかげと本当に感謝している。
国連政務官としての仕事については、あまり公にできないことも多いが、とにかく、UNAMAの任務でもある、「アフガンでの国民和解」を少しでも進めるよう、自分のできることだけのことはしたいと考えている。
しかし、家族への負担は大きい。
今回、アフガン勤務をするにあたり、やはり、カナダとアフガンは遠いこと、そして、私も日本での活動もあること、また、子供にとっても小学校6年生の4月に日本に戻るメリットなどを考え、今年の3月末を持って、カナダを引き払うことにした。
息子にその話をしたとき、大粒の涙を流しながら、それでも父親の都合を分かってくれた息子にとても感謝している。
正式に国連からの採用が決まったときに、そのことを子供に話すと、「パパを見ていて、自分の夢をずっと求めていけば、叶うということが分かった」と一言いってくれたのが、自分にとってはなによりの褒美だったような気がする。
今年2月にカナダに戻った二週間、子供にとっては、カナダで最後となる学習発表会があった。息子は、事前に模造紙に書いたものを示しながら、広島の原爆について発表していた。極めてきちっと、前をみて、堂々と発表していて、とても嬉しく思った。実際にまだ広島に連れて行ってあげていないのが申し訳なく、早いうちに、連れて行ってあげたいと思う。私の両親が生まれ、実際に原爆にあった場所でもある。
そして最後、息子と一緒にカナダの応援をした。カナダ人の女性チームはたくましく戦いぬき、2−0で完勝。遂に金メダルを獲得した。
オリンピックのゲームを見るのは、実はこのバンクーバーオリンピックが最初だった。そして決勝戦でカナダが勝つことも息子と一緒に体験することができ、私はラッキーだったと思う。
金メダルをとった瞬間、会場は沸き立ち、隣の息子も、大声で「カナダー」と叫んでいた。
これから日本に戻って、子供はうまく順応できるだろうか。いじめられたりしないか。
不安は多々とあるけど、「息子であれば大丈夫だ」と、信頼することしか親にはできないのかとも思う。
でも、何かあったらいつでも親に言って欲しいとも思う。
妻にも、引越しを任せきりで、本当に頭があがらない。しかし荷造りから、日本に持って帰らない車をはじめ全てのものを完璧に売り払って、今日、日本に旅立ってくれることになっている。一度、「毎日電話をくれた方がやはり安心です」というメールをもらい、涙が出そうになった。
本当に家族の支え、友人の支えがあって、ここまできたと思う。
アフガンの治安情勢は悪化を続けていて、私もいつまで勤務ができるか分からない。
まだ、PhD論文を最後まで終わらせていないという課題も重くのしかかっている。
そして何より、この国の平和に、少しでも貢献できるのかどうか、それが一番の試練である。
それでも、まあこの仕事を夢にしてきたのだから、自分にできることの最善を尽くすしかないのであろう。
それが妻や子供の協力に応える唯一の道かも知れない。
そんなことを思いながら、カブールのオフィスでこの文章を書き、今日、日本に戻る妻と子供のことを考えている。
☆☆☆☆ 店主から感謝の言葉☆☆☆☆
東氏の「カナダからの最後の手紙」がこれほど見事な結実と共に届けられることを、5年前にどこまで想像できただろうか。「パパを見ていて、自分の夢をずっと求めていけば、叶うということが分かった」息子さんから出た言葉は、そのまま私たち、東君の生き方を見てきた者にとっての実感でもある。心から感謝し、君に金メダルを贈りたい。
君がカブールで、日本に帰った妻と息子さんに思いを馳せながら、「カナダから最後の手紙」を書いているころ、日本の日経新聞3月17日版一面にに作家の夏樹静子氏が「青年は荒野をめざす」と題して次の文章を寄せた。転載させてもらう。
「私の若い友人、東大作氏(1969年生)は、以前はNHKの花形ディレクターだった。「我々はなぜ戦争をしたのか」「犯罪被害者はなぜ救われないのか」「イラク復興 国連の苦闘」等々優れた番組を企画、制作し、数々が受賞し、それらを基にした彼の著書は岩波書店などで出版された。職場と仕事に恵まれていた彼が、2004年35歳で自ら退職、アナウンサーだった夫人と5歳の長男と共にカナダに移り、B・コロンビア大学大学院に留学した。理由は「国際紛争の番組を作るうち、平和構築に貢献できる専門家を志した。」ご両親が広島の被爆者であることも影響があった。
留学後はNHK時代の人脈からニューヨーク国連本部の要人にも知遇を得、08年には2ヶ月間にアフガンで現地事務所の協力の下、政治指導者への取材と、市民の政府、米軍、国連等に対する広範な意識調査を行った。論文や活動が評価され、09年、応募者何千人の中から国連政務官に正式採用された。
昨年12月、希望の初任地カブールへ単身赴任する直前の電話で「アフガンの平和は政府と反政府武装勢力との和解なしにはあり得ない。反政府軍の大部分はタリバンから給料をもらい、生活のために戦っている。和解に応じた兵士への職業訓練と仕事作りを、日本が他の支援国と協力して促進させたい」と熱っぽく語っていた。
今年2月26日にもカブール中心部の銃撃戦で外交官を含む17人の死亡が報じられた。「現場は宿舎から歩いて10分以内の通勤コース」と東さんは冷静に話していた。
日本にもこんなに勇敢な青年がいる。「平和構築」の新刊(岩波新書)も出た。私は日々彼の無事と、志の構築を願っている。」(日経新聞2010年3月17日「あすへの話題」)
東氏も言っているように、カブールでの国連の仕事は不用意に公にできないであろうが、「カナダからの手紙」に続いて「カブールからの手紙」が届けられることを首を長くして待っている。そして、なにより、みなが東君の無事を願っている。
☆☆☆☆☆
※東大作氏は、アフガン新たな和解プログラムを国連へのリポートで繰り返し提案している。Challenge of Constructing Legitimacy in Peacebuilding: Case of Afghanistan http://www.un.org/Depts/dpko/lessons/
※東大作のテレビ・ジャーナリストとしての航跡はここをクリックすればでます。
※ 「草木花便り」の中での東大作の航跡
◇「2004年7月19日 曇天に咲く孤高のひまわり(「夢の誠文堂 店主より)」
◇「2004年8月27日 オークの樹の下で 東大作 カナダからの便り@」 ◇「10月1日 A<誤算>」
◇「2005年1月1日B<私と息子>」◇「2月6日C<出会い>」◇「3月6日D<壁>」◇「5月13日E<年齢>」◇「7月26日F<国連にて(1)粘り>」◇「G<国連にて(2)テーマ>」
◇「2006年2月6日H<カナダと格差>」◇「3月3日I<結果とオリンピック>」◇「10月6日J<カナダと新渡戸稲造>」◇「10月30日K<新しい出会い>」◇「2007年4月27日L<コースワーク終了>」
◇「2007年8月23日M<奇遇と三年>」 ◇「2008年1月5日N<クライマーズ・ハイ>」
◇「2008年2月23日O<カブールからの便り1>」 ◇「2008年5月〜7月Q<アフガンからの便り1>」 ◇「2008年10月21Q<アフガンから東チモールへ>」
◇「2009年4月1日<東チモールからの手紙>」 ◇「2009年5月28日<出版>」
◇2009年6月「平和構築」を読んで
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